19歳で初紅白、23歳で結婚→引退を決めたことも…石川さゆり(66)が抱えていた“歌手としての葛藤”「新曲を出しているのに、どうして?って…」〈紅組最多出場〉
23歳で結婚、妊娠発覚で紅白を辞退したが…
それからというもの石川は紅白の常連となった。1981年にはホリプロで彼女の宣伝担当を務め、のちにライターに転じた馬場憲治と結婚する。その2年後には妊娠がわかり、すでに出場が内定していた紅白を辞退した。 しかし、いまならありえない話だが、NHK側は応援だけでも来てほしいと頼んできた。これに彼女は「生まれてなかったら、行けると思いますが……」とあいまいな返答をしたところ、毎日確認の電話がかかってくるようになる。ついに大晦日を迎え、まだ生まれていないとわかると「じゃ、来てください」と言われ、すでに大きくなったお腹を抱えながら真っ赤なワンピースを着て会場に駆けつけると、応援に参加して依頼に応えたのだった(『週刊読売』1998年4月12日号)。歌手としての出場は途絶えたとはいえ、ステージには立ったので、石川は今年にいたるまで48年にわたり紅白“皆勤”ということになる。
都はるみを待っていた
翌1984年2月には予定より遅れて女児を出産した。この年暮れの紅白では、歌手の大先輩の都はるみがデビュー20周年を機に一度引退する(のち1990年に復帰)。大トリを務めた都は歌い終えてステージを降りると、しばらく一人にしてほしいと頼んで楽屋に引きこもった。それから自分でも記憶がないほど茫然自失の状態でいたが、ハッと我に返ると、帰り支度をしてもらうため楽屋を仕切っていたカーテンを開けた。すると、そこには顔を泣きはらしながら小さな包みをかかえた石川が立ち尽くしていたという。都のマネージャーによれば、彼女は自分で直接手渡したいと言って、ずっと待っていたらしい。 都はるみはこのときのことを翌1985年末、本名の北村春美名義による石川宛ての書簡という形で明かした上で、自分が引退してから1年のあいだ、折に触れて彼女の活動を気にかけてきたと記している。ひるがえってその数年前、都は《私の歌唱法を一変させよう、そしてその新しい歌唱法が受け入れられたら、その証として〈レコード大賞最優秀歌唱賞〉を狙ってみよう》と思い立つと、ただひたすらに歌い続け、その目標を達成した。それだけに都には、このときの石川に対し《歌手として、もがいて、格闘して、また跳んでといった様子が実によく理解できる》と見抜いていた(『Emma』1986年1月10日号)。 まさにこの年、石川も「波止場しぐれ」で日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞した。翌1986年にはロサンゼルスとサンフランシスコで初めて海外公演を行うなど、まさに飛躍の時期を迎えていた。