信玄の跡を継いだ武田勝頼は実力があったのに、なぜうまくいかなかったのか⁉
世の中では創業者を継いだ二世社長はうまくいかないという話をよく聞く。武田勝頼もこのなかに並べられ、語られることが多いが、しかしながら、勝頼は父・武田信玄の代より領土を拡大させ、武田家に勢いをもたらした名将と語ってもいい武将であった。では、なぜ勝頼はうまくいかなかったのだろうか? ■正統性に欠けた武田勝頼が当主となり重臣たちが反発 武田信玄が徳川家康と戦った三方ヶ原合戦・野田城攻撃には、武田勝頼は参戦した。諏訪衆を率いた勝頼は、武田軍団の1武将としての役割をしっかり担っていた。 信玄逝去前の遺言のポイントは4つあった、とされる。その1が「我が死を3年間秘匿せよ」。次いで「勝頼の嫡男・信勝(のぶかつ)が16歳の成人になるまで勝頼が陣代(代行)を務めるべし」とした。さらに「出陣に当たって、諏訪法性の兜は使用して良いが、風林火山の旗・勝軍地蔵の旗・八幡大菩薩の旗など、武田重代の御旗は使用を禁ずる」というものだ。『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』が伝えるこの遺言は、少し勝頼には厳しすぎる内容であった。 しかし、少なくとも信玄亡き後の武田家と家臣団に、勝頼の正統性を巡って論議のあったことは確かだった。その論議は、それぞれの思惑を呼んだ。信玄時代からの宿老(「四天王」とされる山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・高坂昌信)と新参者(出頭人。吏僚派の跡部勝資・長坂釣閑斎など)の確執に、親族衆(穴山信君・小山田信茂ら)や勝頼直属の諏訪衆の新しい力が絡んだ。 信玄は、勝頼を甲府に呼び寄せておきながら後継者として別格扱いをした形跡があまりない。勝頼の立場を立てるには、武田代々の諱「信」を名前に付けるべきだったが、勝頼は「勝頼」のままであり、将軍家に勝頼の官位などを要請したものの沙汰止みになってしまった。 この頃、信玄にとって勝頼以上に大事な存在が、誕生した孫であった。その誕生が東光寺で亡くなった嫡男・義信の死亡(永禄10年10月19日)直後の11月であったから、信玄は義信の生まれかわり、と見た。呪術・神仏の加護や罰などが当たり前に信じられていた時代である。信玄は、最も頼みにしていた信義の生まれ変わりの存在を得て喜び、即座に「武王丸」「信勝」と名付けたほどである。「武王」とは武田の王を示し、信勝は武田家累代の諱「信」がある。生まれながらの「武田家の継承者」ということである。信玄の在世中、信勝は「御曹司様」と呼ばれ特別扱いされていた。 すると信玄の「信勝が16歳になったら家督を譲る」という遺言は分かる。だがこの遺言が、この後に武田家を混乱させることに繋がったのだった。 ■表面化する綻びと勝頼の焦燥 この時、勝頼は28歳。10年前の初陣は上野・箕輪城攻城戦であり、一騎打ちで敵将を討ち取るという手柄を立てている。勝頼は勇猛果敢な「戦う大将」であった。武田家内部で自らの立場を確立させるには、父以上の「強さを示す」以外にない。勝頼はそう思った。跡目を相続した勝頼は西上野に侵攻した謙信と、東美濃に出張った信長の双方を迎え撃つ姿勢を見せた。そして謙信を撤退させ、返す刀で美濃・明智城など信長方の砦18を落とした。 その勢いに乗って家康の領内にも侵攻し、信玄も落とせなかった遠江・高天神城を1カ月で落城させた。勝頼の評価は「天晴れなる武将」(信長の謙信への書状)「武将として一級」(北条氏政)「信玄以上の武将。徳川軍単独では勝頼とは戦えない」(家康)と上がった。 だが、武田家内部の綻びは四天王の1人・内藤昌秀の勝頼への抗議で表面化した。昌秀は「勝頼側近の1人が自分を謗っている。許せないことだ」というのだ。慌てた勝頼は「その問題は糾明するから、今後の奉公を格別にして欲しい。これからもさまざまな意見を言って欲しい」などとする起請文を血判まで押して渡した。さらに天正2年(1 574)2月には宿老会議に、メンバーではない出頭人・長坂釣閑斎が出席したことで、昌秀と釣閑斎が罵り合いにまで発展する険悪な雰囲気を作ってしまった。こうした事件が、武田家内部の分裂に拍車を掛か けた。 領内にも、新たに始められた合戦への莫大な軍事費などへの批判があり、これに勝頼の武田家継承者への正統性を巡る批判が絡んだ。勝頼は、劣等感への反発から「強い大将」を家臣団に見せるしかなかった。 監修・執筆/江宮隆之 歴史人2024年7月号『敗者の日本史』より
歴史人編集部