戦時下の歌謡曲に込められた母の悲願とは。「軍国の母」は勇ましい歌詞の裏で、レクイエムのような悲しい旋律
日本には、長きにわたって愛されてきた<昭和歌謡曲>が数多くあります。日本人は、なぜ昭和歌謡曲に魅了されるのでしょうか?日本近代史を専門とする日本大学商学部教授・刑部芳則さんの著書『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』から一部を抜粋し、当時の時代背景とともに懐かしの名曲を振り返ります。今回のテーマは「戦時下の母と子を歌った『母もの』」です。 【書影】人々の心をとらえた昭和歌謡曲が生まれた背景と、その特徴を炙り出す。刑部芳則『昭和歌謡史-古賀政男、東海林太郎から、美空ひばり、中森明菜まで』 * * * * * * * ◆戦時下の母と子を歌った「母もの」 日中戦争が始まって最初のヒット曲となったのは、昭和12年(1937)8月にテイチクから発売された美ち奴「軍国の母」(作詞:島田磬也、作曲:古賀政男)である。 これは日活映画『国家総動員』の主題歌として作られた。 この歌詞の1番では、祖国のために名誉の戦死を遂げることを望み、我が子を駅で見送る母の姿が描かれている。 しかし、これは「建て前」である。実際に作詞者の島田磬也は「強い励まし文句の半面、我が子の無事を祈る母の悲願がこめられている歌曲である」という。 したがって、古賀政男はレクイエムかと思うほど悲しい「本音」の旋律をつけている。 この「建て前」の勇ましい歌詞と、「本音」の悲しい旋律とは、日中戦争下の戦時歌謡を読み解く鍵といえる。 淡谷のり子は「歌詞こそ勇ましい軍国調ではあったが、メロディーはいずれも哀しかった」と振り返っている。
◆皇国の母 「軍国の母」は11万8948枚というヒットとなった。 このヒットに目をつけたコロムビアは、昭和13年(1938)2月に音丸「皇国の母」(作詞:深草三郎、作曲:明本京静)を発売した。 この4番の歌詞には、東洋平和のために夫が戦死したなら涙は流さず、残された一人息子を立派に育ててみせるという、「皇国の母」の姿が描かれる。 そのような綺麗ごとで諦められるものではないが、実際に戦死して遺骨となって帰ってくる家庭も出てくる。 「母もの」は、そうした遺家族を慰めるレクイエムともなった。