秀吉、家康が恐れた高山右近の「誠実」さ
■高山右近の「誠実」さ 高山右近(たかやまうこん)は、敬虔なキリシタンとして豊臣秀吉や徳川家康など時の権力者から一方的に迫害され、最終的にフィリピンへ追放されたか弱い殉教者というイメージが強い戦国大名です。 しかし、実際は秀吉からはその影響力を警戒されたため追放されたものの、その武将としての実力を最期まで惜しまれ続けました。 また家康からもその経験と実績を警戒されて、右近を海外に追放させるために、キリスト教禁止令が出されたと言われているほどです。 天下人である2人から実力を高く評価されたのも、逆に体制から排除されたのも、右近の「誠実」さが理由であると思われます。 ■「誠実」とは? 「誠実」とは辞書によると「私利私欲をまじえず、まごころがあっていつわりがなくまじめなこと。また、そのさま」や「ほんとうであること。また、そのさま」とされています。「忠実」という言葉も同じ意味がありますが、「忠実」には「命令に対して、言いつけどおりに真面目に」というニュアンスがあります。「誠実」には「自分の意志によって献身的に尽くす」というニュアンスが込められています。 右近は最高権力者からの要求であっても、自身の考えの元で「誠実」を基本に対応していきます。 ■高山家の事績 高山家は摂津国(せっつのくに)能勢郡高山、または同国三島郡高山を出自とする国人衆(こくじんしゅう)と言われていますが、詳細は不明です。父飛騨守のころに、三好長慶(みよしながよし)の元で、松永久秀(まつながひさひで)の与力となり大和国の沢城の城主となっています。このころにイエズス会のヴィレラから洗礼を受け、キリシタンとなったようです。 織田信長の上洛によって、足利義昭の側近である和田惟正(わだこれまさ)が摂津国を支配するようになると、その与力として芥川山城の城代となります。惟正死後、敵対関係にあった荒木村重(あらきむらしげ)と通じると嫡子和田惟長(これなが)を追放し、高槻城2万石の城主となります。 上役であった村重の謀反に巻き込まれるものの、信長の配慮により領地は安堵されています。 本能寺の変後は、秀吉の元で山崎の戦いや賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで活躍し、さらに加増されています。豊臣政権下での小牧長久手の戦いや四国征伐などでの活躍が認められ、播磨国明石6万石に加増移封となります。 しかし、九州征伐後に突如として伴天連(バテレン)追放令が発布され、右近は棄教を拒んで追放されます。