秀吉、家康が恐れた高山右近の「誠実」さ
■信長にも認められた右近の「誠実」な姿勢 和田家の居城高槻城(たかつきじょう)を乗っ取ることになった主な要因は、惟長による家中の粛正でした。 右近は事前に罠だと分かっていたものの、当主の惟長からの呼び出しに応じます。少数の家臣を引き連れ、屋敷内での斬り合いで重傷を負いながらも辛うじて勝利を収めました。 これも惟長の要求に「誠実」に対応した結果の乱闘だったのかもしれません。結果として惟長が逃亡したため、高山家が高槻城を主導するかたちとなりました。 また村重が右近に相談なく織田家に謀反を起こした際にも、「誠実」な対応で事を収めようと努力しています。右近はこの謀反に非がある事を説得するために、妹や息子を村重の有岡城へ人質として差し出し、自身の誠意を示しています。しかし、村重は信長を恐れるあまり翻意しませんでした。 右近は村重への心証を悪化させず、信長に城を明け渡す方法として、武士を捨ててキリシタン僧として出家する事を選びます。謀反に賛成する父飛騨守とは意見を違えますが、これを家臣の協力のもと退けています。 その後、信長から高く評価された右近は織田家の直参となり、京都御馬揃えでは摂津衆の筆頭として参加しています。 ■秀吉、家康による棄教を拒んだ右近 右近はキリシタン大名として、その布教に努め、蒲生氏郷(がもううじさと)や黒田孝高(くろだよしたか)を改宗させています。小西行長(こにしゆきなが)は幼少の頃に父によってすでに洗礼を受けていましたが、敬虔(けいけん)な右近と交際するようになって熱心な信者として活動するようになります。右近の人柄もあり、その後豊臣家中でキリスト教へ帰依するものが増えていきます。 しかし、1587年に、秀吉の命によって、伴天連追放令が発布されます。これは、豊臣政権内で強い影響力をもった右近を棄教させるために作られたとも言われています。 秀吉の側近や同僚からも形式上の棄教を進められますが、右近は頑なにそれを断ります。右近の茶の湯の師匠でもある、千利休(せんのりきゅう)による説得にも応じず、敢えて追放の道を選びます。 そうしながらも秀吉は右近を気にかけており、前田家に客将として2万6千石で仕えるように手配していたようです。右近は前田家の参謀のような位置づけにて、小田原征伐や関ヶ原の戦いにも参陣しています。 その間にも織田秀信(ひでのぶ)や京極高知(きょうごくたかとも)、明石全登(あかしてるずみ)たちの入信を支援するなど、右近の影響力の強さが伺えます。 1614年には家康によって、キリスト教禁止令が発布されます。これも豊臣家征伐に備えてキリシタン勢力の中心となりうる右近の排除が目的だったと言われています。前田家の者や他の大名たちは、右近の人柄を惜しんで棄教のふりをする事を勧めますが、これを拒否して追放される事を選びます。 右近はどのような状況に置かれても、常に「誠実」さをもって進退を決めます。 ■組織の中で「誠実」を保つことの難しさ 右近は自身の立身出世よりもキリスト教に「誠実」であり続けようとします。秀吉や家康などの権力者からは、その姿勢と影響力を警戒され続け、最後はフィリピンのマニラで客死することになります。 現代でも、自分の考えに「誠実」であろうとし過ぎるために、組織での居場所を失くしてしまう例は多々あります。 もし右近が形式上でも棄教していれば、高山家は江戸時代を通じて大名家として存続していたかもしれません。 ちなみに、キリシタンが迫害を受けたサン=フェリペ号事件で、右近を処刑対象から外したのは、関ヶ原の戦いで敵味方に分かれることになる石田三成(いしだみつなり)でした。
森岡 健司