曾孫の代まで父や天皇家を支え続けた国母・藤原彰子
6月30日(日)放送の『光る君へ』第26回「いけにえの姫」では、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)が夫の藤原宣孝(ふじわらののぶたか/佐々木蔵之介)と徐々にすれ違っていく様子が描かれた。一方、藤原道長(みちなが/柄本佑)は、世の安寧を図るべく、自身の娘・藤原彰子(しょうし/あきこ/見上愛)をいけにえ同然に入内させることを、苦しみながら決断していく。 ■まひろの結婚生活に暗雲がたち込める 998(長徳4)年10月、日食が観測された日に、京は大きな地震に見舞われた。死者100人を超える甚大な被害となったのを受け、藤原道長は天変地異がいつまで続くのか、安倍晴明(あべのせいめい/はるあきら/ユースケ・サンタマリア)に尋ねた。これらは晴明の予言通りだったからだ。 晴明は、中宮・藤原定子(ていし/さだこ/高畑充希)のもとに通い詰める一条天皇(塩野瑛久)の心の乱れを収めることが天災を鎮めるために必要なことと答える。そのためには、道長の長女・藤原彰子の入内が条件だという。 妻の源倫子(みなもとのりんし/ともこ/黒木華)に猛反対されるなか、当初は乗り気でなかった道長も徐々に、混乱を鎮めるには娘の入内しかない、と考えるようになっていく。 京で続く天災に責任を感じていた一条天皇は、道長の働きに報いるべく、彰子の入内を許した。 一方、まひろは夫の藤原宣孝との価値観のズレに戸惑うことが日ごとに増えていた。やがて宣孝は、まひろの扱いを難しく感じるようになり、足が遠のくようになっていく。 すっかり宣孝の来訪が途絶えた頃、まひろは石山寺参詣を思いつく。寺でまひろは、道長と偶然の再会を果たすのだった。 ■多くの女流文化人を輩出した彰子サロン 藤原彰子は、藤原道長の長女として988(永延2)年に生まれた。母は左大臣を務めた源雅信の娘・源倫子。 999(長保元)年にわずか12歳で一条天皇の女御となった。先に中宮となっていた藤原定子が懐妊していたため、政権内の主導権を奪われることを恐れた道長が、強引に入内させたとする見方もある。定子は、道長の兄・道隆(みちたか)の娘。道隆を祖とする中関白家は当時、力を落としていたものの、道長にとっては朝廷内の権力闘争を行なった政敵でもあった。 彰子が入内した直後、定子は敦康(あつやす)親王を出産。一条天皇の初となる皇子の出産だったため、道長の杞憂もあながち的外れとはいえない状況ともいえる。 喜ぶ一条天皇をよそに、定子邸に祝いにかけつけた公卿はほとんどいなかったという。当時の権力者・道長に対する忖度が働いていたものと考えられる。