曾孫の代まで父や天皇家を支え続けた国母・藤原彰子
翌1000(長保2)年に彰子は立后(りっこう)し、中宮となった。一方、定子は皇后となる。天皇に複数の女御がいるのは珍しいことではないが、正妻にあたるのは一人と定められていた。定子と彰子は、こうした慣例から大きく逸脱し、一帝二后、つまり一人の天皇に二人の正妻がいる前代未聞の事態の中に身を置くこととなった。このとき道長が押し通した理屈は、定子は一度、仏門に入った身分であり、皇后としてなすべき神事が行えない、というものだった(『権記』)。 定子はことのほか一条天皇の寵愛を受けたが、同年末に皇女を出産した直後に亡くなっている。彰子と定子は一度も顔を合わせることなく、二后並立の異常事態も1年足らずで終わりを告げた。 こうして正妻の地位は彰子のみとなったが、まだ子どもの産めない年齢だったため、定子の産んだ敦康親王の養母という形をとることになった。彰子と親王が同じ殿舎で起居することになったのは1004(寛弘元)年1月からで、彰子は敦康親王を愛情深く育てたという。 それからまもなくとなる1006(寛弘3)年前後より、紫式部が彰子のもとに出仕している。紫式部は、まだ若い彰子の家庭教師のような役割を道長に任じられたようだ。 彰子が敦成(あつひら)親王を出産したのは1008(寛弘5)年のこと。待望の皇子だったことから、道長は敦成親王を皇太子とすべく、さまざまな工作を開始することとなる。なお、翌年には敦良(あつなが)親王も生まれている。 1011(寛弘8)年に一条天皇は三条天皇に譲位。その際に敦成親王を皇太子に据えている。当然、道長の手引きがあったもので、定子の子である敦康親王が皇太子になることを期待していた彰子は、父の強引な手腕に恨みを抱いたといわれている(『権記』)。 さらに、道長に迫られて三条天皇が譲位すると、1016(長和5)年に道長の孫である敦成親王が後一条(ごいちじょう)天皇として即位。こうして道長は天皇の外戚として摂政に就任する。その一方で、事実上、政務において発言権を持ったのは、国母たる彰子であった。 やがて彰子は出家。1026(万寿3)年のことで、彰子は上東門院(じょうとうもんいん)と呼ばれる女院となった。父の道長のみならず、弟で摂関を務めた藤原頼通(よりみち)、藤原教通(のりみち)、子の後一条天皇と後朱雀(ごすざく)天皇、孫の後冷泉(ごれいぜい)天皇と後三条(ごさんじょう)天皇など、家族らに次々に先立たれ、世の無常を嘆くばかりの晩年だったという。とはいえ、天皇家や摂関家を支える役割をまっとうし続けた。 87歳という長寿を保った彰子は、1074(承保元)年にこの世を去る。時はすでに、彰子の曾孫である白河(しらかわ)天皇の治世となっていた。 なお、彰子に仕えた女房といえば、紫式部だけでなく、赤染衛門(あかぞめえもん)、伊勢大輔(いせのたいふ/おおすけ)、和泉式部(いずみしきぶ)など、錚々たる女流文化人の名が並ぶ。定子の築いた文芸サロンほど活発ではなかったようだが、名だたる文人が顔を揃えたことから、知性あふれる華やかな宮中生活だったことがうかがえる。
小野 雅彦