「平和なときに戦争は準備される」 80年後のいま…「戦後」は「戦前」になったのか【報道特集】
そんな司令部壕など戦跡をめぐるフィールドワークが行われた。仲村さんは、ここに垂直に掘られた入り口があったと解説した。 沖縄県平和祈念資料館友の会 仲村真 事務局長 「ここから最初に米軍が32軍司令部壕の中に入ったと。中枢部はちょうど皆さんが立ってるこの下あたり」 そのエリアにつながる坑道に、5月、カメラが入った。かなり水がたまり、足場は悪い。壁や天井には掘り進めたつるはしの跡。坑木も3本確認できる。残されていたビール瓶には、ダイニッポン・ブルワリーとあった。 ■沖縄の運命を決めた第32軍司令部壕 南部撤退で多くの避難住民が犠牲に 軍と住民の関係を象徴するともいえる場所がある。第5坑口だ。 牛島が訓示の最後に掲げた「防諜に厳に注意すべし」。陣地の構築などに動員してきた住民に、軍事機密を知られることへの警戒心からだった。 沖縄国際大学 石原昌家 名誉教授 「その後の沖縄県民総スパイ視、住民虐殺、集団死、そういう流れが牛島軍司令官によって作られたというふうに断言していいと思います」 それがよく行われていたという場所が、この第5坑口付近だ。 壕に出入りしていた當銘春子さんの手記に、スパイ容疑がかかった女性が虐殺される場面が記されている。 「戦意高揚のためと言って一人一人交替で銃剣で刺せということになって、下士官の『次、次』という合図で『エイ、エイ』と気合を込めて刺す。『アガ、アガ』と言って身を捻る姿。顔は見えないが、踞る様子は手に取るように見える。次第に自分の順番が迫って来る。どうしてもその気になれないでいる。絶体絶命、意を決し踵を返したら、一目散にその場から逃避して壕内に逃げ帰った」 本土決戦を遅らせる時間稼ぎのために32軍は、首里での決戦を避け南部へ撤退を決める。その際、脱出したのもこの第5坑口だ。南部には多くの住民が避難していた。軍民混在となった戦場で、住民の犠牲は軍人を上回った。 翁長さんは、南部で見た惨状を忘れない。