養老孟司『田んぼ?俺とは関係ない』と思っている今の子に伝えたい、自分の延長とは?戦後、薪割りや湯沸かしが私の仕事だった
東京大学名誉教授で医学博士の養老孟司さん。著書『バカの壁』は450万部を超えるベストセラーに。今年で86歳、これまでを振り返り「人生は、なるようになる」との結論にたどり着いたといいます。養老さんが思い出す、戦後の生活とは――。 【写真】養老先生「日常生活で体を動かすのを当たり前だと思っていたから。それで今も元気なんじゃないの」 * * * * * * * ◆小学4年生、戦後の生活 本土決戦用に市内の穴に隠してあった高射機関銃などが外に出され、妙本寺の山門脇に置かれていたことも戦後の思い出です。 その上に乗って遊んだよ。鬼畜米英のスローガンも消え、鎌倉には、米兵がよくやってきて、チョコレートをくれた。 戦後の食糧難はひどくて、すいとんやサツマイモを薄く切り、天日で干したものばかり食べていたから、サツマイモはもう見たくもないねえ。においがダメなんですよ。 カボチャは煮ただけのものを嫌というほど食べた。 1946年5月19日の食糧メーデーには25万人が参加。プラカード「朕(ちん)はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」が不敬罪で起訴される。 当時、電気はニクロム線の電熱だからすぐに切れる。それで朝起きたら練炭に火をつけ、お湯を沸かし、竃(かまど)で飯を炊く。風呂を沸かすことも含め、全部、私がやっていた。 そういえば、しょっちゅう近所の猫がうちの竈に入って、残り火で焼け焦げつくっていたなあ。薪割りも小学校四年生ぐらいからした。日常生活で体を動かすのを当たり前だと思っていたから。それで今も元気なんじゃないの。
◆生活に自然があった時代 それが今では都会も田舎も脳の産物である人工物があふれ、ボタンを押せば、ひとりでに風呂が沸き、暑ければエアコン、寒ければヒーターをつける。それではエネルギーを食うわけだよ。 駅前を歩いても、自動車は少なく、牛馬がたくさんいた。砂利道には牛や馬の糞も落ちていて、糞虫もいっぱいいたけれど、今は絶滅状態ですな。ハエも「五月蠅(うるさ)い」ほどたくさんいて、そこら中にハエ取り紙とかがあった。頭からバサッ、バサッとDDTをかけられたのもあの頃です。 そして、戦後の食糧増産で、いたるところが畑にされ、農耕用の牛馬の飼料のために山で草刈りがされ、畑には肥だめがあった。 要するに、僕の子どもの頃は努力と辛抱、根性で里山を維持していたから、人間と自然は一体であることは感覚的にわかっていた。でも、今の子どもは生活の中に自然がないから、この感覚をどうやって伝えるか、苦労します。
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