知ってはいたつもりだったけれど… 上野千鶴子が初めての“転倒事故”で身に染みた“他人の親切”
社会学者上野千鶴子さんが、その感性を低く静かな「大人の音色」で奏でたエッセイ『マイナーノートで』。目標を持たない学生が研究者となるまでの過程から、チョコレート好きな一面、老いへの不安や、他界した先達への哀悼などを綴った随想だ。同書より、「転倒事故」を抜粋して紹介する。 追い抜かれていく、次から次へと。早足で歩く長身の若者はもとより、重い荷物を抱えた女性、子連れの若い母親にも。こんなはずではなかった。人並み以上に足の速いことを自負していたわたしは、連れの友人たちから、しょっちゅうこう言われていたのだ、「ちょっと待って、もう少しゆっくり歩いてよ」と。 お年寄りが杖をついてゆっくり歩くのを追い越すたびに、わたしもいずれこうなるのか、と予想はしていたが、まさかこんなことになるとは。痛めた腰をかばいながら歩くので、どうしてもスピードが出ないのだ。 不測の事態で転倒事故を起こし、腰を強打した。久し振りに出かけた先の新幹線の昇りエスカレーターでのことだ。引きずっていたキャリーバッグの重さに引っ張られてバランスを崩し、真後ろに転倒した。立ち上がることもできず、そのままエスカレーターに仰向けになって頭を下にしたまま、ずるずると上昇していった。 天井を見あげながら、このままいくとわたしはどうなるのだろう、とぼんやり考えた。エスカレーターの先にギロチン台が待っているような不穏な予感がしたが、身動きできない。最後まで上がりきると、その場にいた見知らぬ男性が両足を持って引きずりだしてくれた。痛みとショックで脂汗が滲んだ。 コロナ禍で長いあいだ、引きこもっていた。最近になってリアルでイベントを開催するから出てきてほしいという依頼が増えていた。新幹線にもずっと乗っていなかったので、どうやって乗るのか忘れたような気もしたほどだ。そんな出張先でのことだった。 現地で整形外科を受診してレントゲンをとってもらった。圧迫骨折の可能性があると言われた。直後に講演の予定が入っていたので、コルセットでぎりぎりと締め上げ、鎮痛剤の坐薬を押しこんで務めは果たした。幸いに頭を打っていなかったので、アタマとクチのほうはだいじょうぶだった。 だが演壇に車椅子で登場した姿を見た聴衆は、びっくりしたようだ。テーマは「おひとりさまの老後」。みなさんもいずれこうなります、と演題にふさわしい登場だったが、実際に自分がそうなってみるまで、リアリティがなかったことに気がついた。