知ってはいたつもりだったけれど… 上野千鶴子が初めての“転倒事故”で身に染みた“他人の親切”
痛みは気持ちを萎えさせる
それにしても痛みは気持ちを萎えさせる。視界にもやがかかったように気持ちが晴れない。眉間に縦皺が寄っているのがわかる。食欲もなくし、入浴する元気もなくなった。靴下を穿くにも難儀した。寝返りを打つたびにうめいた。これが続けばどんなにか神経がまいるだろうと思った。聞いてはいた、知ってはいたつもりだった。 だが他人の痛みはしょせん他人の痛みだった。あのとき、あのひとはこの痛みに耐えていたのか、ガン末期のあのひとは、鎮痛剤を使いながらわたしに会いに来てくれたのか、とあれこれのシーンを思いだす。 しごとはほとんどオンラインに切り換えてもらった。「アタマとクチはだいじょうぶですから」と応じたが、どうしてもテンションは下がる。「あなたの場合は、ちょっと下がったぐらいがちょうどいい」と言うひともいる。いろんなひとがいろんな忠告をくれた。「いったいどうしたの?」と訊かれて、「説明するのもつらいから言いたくない」と答えたら、「あら、言えばラクになるわよ」と言われた。そのとおりだった。 言いふらしたわけではないのだが、たくさんのひとに助けてもらった。「食べてますか?」とレトルト食品の宅配便が届いた。お買い物も手伝ってもらった。手作りのポトフを届けてくださる方もいた。鮨折りの差し入れもあった。カルシウムを摂りなさいと手製の絶品ちりめん山椒が届いた。漏れ聞いた元教え子からスイートなお見舞いが来た。腰痛に苦しんだことのあるひとから、愛用しているというクッションが通販で届いた。気分の上がる華やかな盛花も届いた。 「だいじょうぶ? って尋ねたら、あなたはきっとだいじょうぶ、って答えるから、今回は病人でいなさい」と言われて「病人モード」で過ごすことにした。「だいじょうぶ?」って訊かれたら、「だいじょうぶじゃない」と答えることにした。病人になってみると、他人の親切が身に沁みた。そして自分がこんなに周囲に恵まれていることに感謝した。 今日でちょうど転倒から三週間である。この骨折はいずれ治るだろう。痛みは退いてきてこのところ鎮痛剤を使わずにすんでいる。だが、次に再び転倒するのはいつだろう。そうやって転倒をくりかえしてやがて回復しない転倒が来るのだろうか。それはいつのことだろう。この転倒はその予行演習のような気がする。
上野千鶴子