世界で最も売れたバイク 疾走し続けるスーパーカブ
アメリカで成功、世界中へ
藤沢はスーパーカブ発売の2年前から海外市場を調査していた。二輪の年間販売台数は欧州が200万台だったのに対し、アメリカはわずか6万台。当時のアメリカにおいて、バイクはアウトローの乗り物というイメージが強く、しかも売れているのはハーレー・ダビッドソンやトライアンフなどの大排気量車が中心だった。 困難が予想されるものの、世界一の購買力を誇っていたアメリカで成功すればリターンは大きく、世界へ飛躍する足掛かりとなる。藤沢は、最初にチャレンジすべきはアメリカだと決断した。ホンダはスーパーカブを日本で発売した翌59年、「アメリカ・ホンダ・モーター」をロサンゼルスに設立する。4機種ほどのラインナップで乗り込んだが、売り上げは惨憺(さんたん)たる結果になった。
苦境の中で活路となったのが、スーパーカブC100(北米名:ホンダ50)だった。日本では配達や通勤などの足として普及したが、アメリカではピックアップトラックやキャンピングカーに積んで、移動先での遊び道具として使われ、高い評価を得ていた。 市場の動向を分析したアメリカ・ホンダは、従来の二輪販売店だけでなく、釣具店やスポーツショップにまでホンダ50の販路を広げ、さらに積極的に雑誌や新聞に広告を打った。こうした努力が実り、62年には年間の販売台数が4万台以上に伸びたのだ。
そして、63年には満を持して「ナイセスト・ピープル・キャンペーン(Nicest People Campaign)」の宣伝広告を大々的に展開。「YOU MEET THE NICEST PEOPLE ON A HONDA(ホンダに乗ると素晴しい人びとに会える)」というキャッチコピーと、さまざまな使い方を提案したイラストは大評判となった。これにより、バイクはアウトローの乗り物から、生活を楽しく便利にする二輪モビリティというイメージの転換に成功。ホンダ50はアメリカにおいて社会現象の一つにまでなったのだ。 アメリカでの成功と前後して、ホンダはスーパーカブの海外生産もスタートした。これは「需要のあるところで生産する」という企業理念に基づくもので、61年に台湾、63年にベルギー、そして67年にタイの工場が稼動。現在では世界9カ国10拠点で生産されている。