世界で最も売れたバイク 疾走し続けるスーパーカブ
本田宗一郎が造り、藤沢武夫が売った
スーパーカブは、ホンダの創業者の一人であり、営業の最高責任者であった藤沢武夫がプロデュースし、叩き上げの技術者である創業社長の本田宗一郎が開発した。 1956年12月、この2人はヒット商品へのヒントを得るためにヨーロッパを視察する。当時、日本ではスクーターが人気であり、ホンダも54年にFRP(繊維強化プラスチック)樹脂ボディの「ジュノオK型」を発売。しかし、車重に対してパワーが不足している上、故障が多かったことから、決して成功作とは言えなかった。本田と藤沢は、ヨーロッパで多くの人がスクーターやモペッド(ペダル付きのバイク)を日常の足として使用しているのを知り、国情の違いをくんだ上で、日本人が求めている小型二輪車の理想像を模索した。 2人が絞り込んだコンセプトは、「そば屋の出前持ちが片手で運転できること」と、「スカートの女性でも乗れること」であった。本田は欧州から帰国してすぐの57年早々から陣頭指揮を執ってエンジンの開発に着手する。当時、バイクのエンジンは軽量でシンプル、かつ高出力が出せる2ストロークが主流だったが、本田は燃費性能に優れ、オイルの飛散の少ない4ストロークを選択した。またぎやすさを優先してエンジンをできるだけ低い位置に搭載したり、左手によるレバー操作が不要な遠心式自動クラッチを開発したりと、さまざまな新機軸を盛り込んだ。排気量は50ccで、最高出力は4.5馬力。同じく50ccで2ストロークの「ホンダ・カブF型」(自転車に取り付けた補助エンジン)が1馬力であったから、実に4倍以上ものパワーを発揮したのだ。
車体設計においてもさまざまなアイデアが具現化された。タイヤ径については、当時の舗装率がまだ10%程度だったことに加え、小柄な日本人の体格を考慮して17インチがベストとされた。しかし、国内では存在しないサイズだったため、これを量産してくれるタイヤメーカー探しに奔走した。スーパーカブのスタイリングは、この17インチタイヤを前提にデザインされており、もし対応してくれる会社がなかったら、今に続くエレガントなS字ラインの車体は生まれていなかったかもしれない。 加えて足元を覆う特徴的なレッグシールドは、前輪からの泥跳ねを防ぐものであり、軽量なポリエチレン樹脂で作られている。当時の専門メーカーではこれほど大きな成形をしたことがなく、ホンダ側で金型を用意することを条件に量産してもらえることになったのだ。 自転車用補助エンジンのカブF型を超えるという意味から、「スーパーカブC100」と名付けられたこの新型車は、58年8月に発売されるや否や大ヒットとなる。当時、二輪車をすべて合わせた国内の販売台数は月間4万台程度だったが、藤沢は「スーパーカブだけで月間3万台は売れる」と宣言。そして、発売3年目にして早くも年間の生産台数が約56万台に跳ね上がり、藤沢の宣言をはるかに上回った。