「ゴールまでわずか150m…」じつは青学大に“悲劇の途中棄権”の過去…“驚異の12人抜き男”は牧場のオーナーに「箱根駅伝で起こった衝撃の事件簿」
第101回を迎えた箱根駅伝。その長い歴史の中では、ごぼう抜きの快走やまさかの途中棄権など、さまざまなドラマが生まれてきた。ファンに衝撃を与えた「箱根で起きた想定外」の歴史を『箱根駅伝100年史』(KAWADE夢新書)から抜粋して紹介する。《全3回の第1回/#2、#3に続く》 【秘蔵写真】はしゃぐ原監督に叫ぶ大八木前監督!“茶髪サングラス”で2区を走ったエース、柏原・神野ら山の神に黒縁メガネの大迫傑も…箱根駅伝スターの名シーンを一気に見る(90枚超)
驚異の12人抜き
スポーツを観戦していてもっともワクワクするのは、いまも昔も「常とは違う現象」が起きたときである。下世話にいえば「信じられない」シーンの出現だ。野球の逆転満塁サヨナラホームラン、サッカーの50m以上のロングシュートによるゴール、バスケットボールでの試合終了と同時に放った超ロングシュートがゴールに吸いこまれる「ブザービーター」などかが代表である。 このような「常とは違った」「予期せぬ」出来事が、じつは70年代の箱根駅伝でたびたび起こっているのだ。 そのひとつは、1974(昭和49)年の第50回大会の2区で見られた。この年2区を走った東京農大の3年生・服部誠が驚異の12人抜きをやってのけたのだ。 1921(大正10)年の第2回大会から箱根駅伝に出場している東京農大は1965(昭和40)年の第41回大会の13位を最後に6年間本戦出場から遠ざかっていた。そして、服部が入学した1972(昭和47)年の第48回大会で7年ぶりに箱根にカムバックし、結果は11位。翌49回大会では8位に順位を上げ、服部の存在も認知されるようにはなっていたが、第50回大会での快走は誰も予想していなかった。
「いまに失速する」ライバルたちの予想に反して…
東京農大は1区の岩瀬哲治が13位と出遅れ、先頭から1分53秒遅れで服部に襷が渡された。鶴見中継所をスタートしてすぐに、服部は前を行く東洋大、専修大、国士舘大、青山学院大、法政大の5人をごぼう抜きにする。 「きっと最後まで持たない。いまに失速する」と半分たかをくくっていた日本体育大、日本大、大東文化大のコーチたちの予測を見事に裏切った服部は、16.5km地点でまず大東文化大の松田強をかわす。さらに先頭を行く日本大から100mほどの差でつけていた2位の中央大・大花弘美、東海大・新居利広、日本体育大・和田誠一、順天堂大・匂坂清貴の集団に割りこみ、この4人も難なく退ける。 そして、17.8km地点でトップを行く日本大・松田光香を射程内に捉え、ついに18.2km地点で追い抜き、首位に躍り出る。そして、そのまま戸塚中継所で待つ3区の山本吉光に襷を渡したのだ。 前人未到の12人抜き。東京農大はこの後も首位を譲ることなく、トップで箱根のゴールに飛びこんだ。東京農大が「箱根」の先頭を走ったのは1923(大正12)年の第4回大会以来実に50年ぶりのことだった。 「(12人抜きよりも)いちばん胸を打たれたのは往路優勝です。(東京農大は)私が入学するまで6年間も箱根に出られなかったのですから。私が1年に入って予選を通過して11位。その3年後に片道だけでも優勝できたのが、今でもいちばんうれしい」(『箱根駅伝70年史』より) と服部は振り返っている。
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