「ゴールまでわずか150m…」じつは青学大に“悲劇の途中棄権”の過去…“驚異の12人抜き男”は牧場のオーナーに「箱根駅伝で起こった衝撃の事件簿」
「ゴールまでわずか150m…」青学大に起こった“悲劇”
2年後の1976(昭和51)年の第52回大会でも、信じられないハプニングが起こった。12年連続で出場していた青山学院大が最終の10区で棄権してしまったのである。それも大手町のゴールまであとわずか150mという、にわかには信じられない地点でのことだった。 この年の青山学院大は17年ぶりのベスト10入りかと、下馬評はけっして低くはなかった。総合11位で襷を受けとった最終10区の走者、杉崎孝は快調に飛ばす。しかし、ゴール前3km地点あたりから走りがおかしくなる。 フラフラしながら2度転倒。そして、ついにあと150mの地点で意識を失う。太田コーチが棄権を申し出て、杉崎はその場から救急車に乗せられ、病院に直行したのだった。後日、杉崎は「就職活動で秋に思い通りの走り込みができなかった」と悔しさをにじませたが、救急車に乗せられた時点でも意識は朦朧としたままで「ゴールできたかどうかが気がかりで、救急車の中で何度も尋ねた記憶が残っています」(『箱根駅伝70年史』より)と語っている。 青山学院大は、この翌年から2009(平成12)年の第85回大会まで、じつに33年間も箱根駅伝から遠ざからざるを得なくなってしまった。
217km常にトップを駆け抜けた“パーフェクト・ラン”
とてつもない記録が誕生したのは、1977(昭和52)年の第53回大会でのことだった。4年ぶり6度目の優勝を飾った日本体育大は、1区から10区まで一度もトップの座を他校に明け渡すことのない正真正銘の「完全優勝」を成し遂げたのである。往路のスタートから復路のゴールまでの217kmを常にトップで走り通した“パーフェクト・ラン”だった。 このとき1区を任されたのは、1500mの日本記録保持者だった石井隆士である。大手町の読売新聞社前を号砲とともにスタートした時点ですでに先頭に立ち、37m先を左折して日比谷通りに出たときには一団からすでに数メートル先行していた。 3.7km地点の芝・増上寺前では後続を100m引き離し、10kmを29分38秒、20kmを60分30秒の好タイムで快走。鶴見中継所では、従来の記録を1分13秒縮める1時間4分9秒の区間新記録で2区の関英雄に襷を渡した。2位は中央大と東海大が競り合うように中継所に飛びこむ。トップとのタイム差は1分22秒。 この“パーフェクト・ラン”での唯一の「ピンチ」は関の走った2区だった。権太坂を下り終えたあたりから足取りが重くなり、快走する東京農大の山本吉光に8秒差まで迫られたのである。関は何とか持ちこたえる。戸塚中継所での東京農大との差はわずか12秒だった。結局、この後も日本体育大は首位をキープし続け、見事に快記録を達成したのである。《第2回、第3回に続く》
(「Number Ex」工藤隆一 = 文)
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