瞬く間に伝説となったランボルギーニ・ミウラ|偉大なる闘牛【前編】
ミウラの発芽
●ミウラの発芽 1年後。まだほとんど実績のない新興ブランドが、再びトリノ・ショーにて新作を披露する。それはV12エンジンをミドに横置きしたベアシャシーだった。もっともそのプロトタイプシャシーを真剣に受け止めた聴衆などほとんどいなかったようだ。その設計は未だ初期段階にとどまっていることが明白で、そこから生まれるものなど何もないはずだ、と。 それからわずか5カ月後のジュネーヴ・ショー。否定的だった人々は意見を180度修正することを余儀なくされる。ミウラがデビューしたのだ。それは瞬く間に伝説となり、スーパーカーという新たなジャンルを確立すると同時に、それまで既存のエキゾチックカーに夢中だったメディアをして従来から存在するライバルブランドが一気に時代遅れになったと言わしめたのだった。 ミウラがこの世に送り出された裏には、驚くほど若い才能たちがひしめいていたことも忘れてはいけない。彼らは個々に天賦の才をもち、組織として群れることなどなかった。ダッラーラと同僚のエンジニア、パオロ・スタンツァーニ(彼らはともにまだ20歳代だった)、そしてテストドライバーのボブ・ウォレスは、彼らが今創り出さんとする車に何ら幻想を抱くことはなかった。根本的に異質な車だったにも関わらず…。 実際、それは十分に実現可能なパッケージではあった。ダッラーラは若い頃、ミニに夢中であったことをのちに認めているが、ミウラの横置きパワートレーンがイシゴニスの設計にヒントを得たものであることは明らかだった。そして横置きされたエンジンは 400GTから拝借したビッザリーニ設計のV12であった。 もっともそのブロックはリアミドに横置きとするべく、トランスミッションとファイナルドライブを抱えた一体型のユニットとして再設計されていた。出力はクランクシャフトエンドからフライホイールを兼ねたスパーギアによってクラッチへと伝達される。さらに自社製の5速ギアボックスを介して別組のスパーギアからデフへと送られ、ドライブシャフトを通じて後輪へと出力は達したのだった。 ミウラはイタリア車として初のミドシップエンジンカーではない(不運な美しきスター、ATS2500GTSがそうだ)。けれどもランボルギーニはミウラによってミドシップカーを、技術的にもそして芸術的にも、まるで別次元へと引き上げた。