ヒトの意識をコンピュータへ移植することはできるか?
ゲーム・コンティニュー
ましてや、ここで前提としている時代は、意識のアップロードが当たり前のものになったそう遠くはないはずの未来だ。お隣りの山田さんも、斜向いの鈴木さんも、デジタル仮想世界のなかで第二の人生を送っている。週末には対面センターで、のこる家族と想い出話に花を咲かせたりもする。そんななか、あなただけが「ゲーム・オーバー」を選択することなどできようか。 なにも、永遠に生きろと言っているわけではない。「ゲーム・コンティニュー」くらいにライトに考えてもよい。一旦は望まない死を回避する。もし、辛い境遇にあったなら、それらすべてが払拭された仮想世界が待っている。 正直なところ、何万年と生き続けるのは私も想像できない。たとえ、それが理想の仮想世界であったにせよ。ただ、人類の行く末、さらには、人類が新たな種にとって代わられたはるか未来の地球の姿はみてみたい。コンピュータへの意識のアップロードゆえ、計算を休止するだけでスリープモードに入る。それを贅沢に使い、宇宙の終焉にも立ち会ってみたい。生身のコールドスリープであれば、栄養を補給しつつ、体温を下げ、代謝を落とすような大掛かりな装置が必要なところだ。そんなものが長く動作しつづける保証はどこにもない。
宇宙の終わりへの虚無感
宇宙の終焉といえば、「死にたくない派」の急先鋒は、数千億年先とも言われるそれにも恐怖する。先日、三年ぶりに実地開催した夏学期の学部講義「脳神経科学」を聴講してくれたメンバーで、オンラインの質疑兼飲み会をひらいた。お気に入りのラム酒で勢いづいたか、宇宙の終わりに対する虚無感を吐露したところ、なんと半数の参加者が賛同してくれた。会の性格上、濃縮されたメンバーではあったのだが。 宇宙の終わりにはいくつかのシナリオが知られている。その一つ、ビッグクランチでは、ビッグバンと逆の過程を辿り、宇宙をかたちづくる原子のすべてが空間の一箇所に凝縮されていく。最期には、原子の状態を維持することができず、寸分の隙間もない指先ほどの大きさの素粒子の塊となり、灼熱の光に包まれる。 一方、ビッグフリーズでは、宇宙は永遠に膨張しつづけ、原子の空間密度はとどまることなく下がっていく。やがて、宇宙は絶対零度に達し、周囲を照らす恒星も、それを周回する惑星も、その表面に安穏と暮らしていたわれわれも、すべてが雲散霧消し、質量のない光子だけが虚空を飛び交う。 いずれのシナリオをたどるにせよ、人類がこれまで築き、今後も築いていくであろう如何なるモノも技術も、その記録も含めて無に帰する。個人の消滅とは一味違う、異次元の虚しさを感じてしまう。せめて、われわれの開発した科学技術を他の宇宙文明に引き継ぐことができたなら、もう少し研究にも精が出るのだが。