ヒトの意識をコンピュータへ移植することはできるか?
意識のアップロードを望むか?
私がこの問いをあちこちで訊いてまわった感覚からすると、アップロードを望むのはごく一部の人たちに限られる。十人に一人もいればよい方だろうか。 当然のことながら、意識の解明と、その副産物としての意識のアップロードを研究テーマとする私はそれを望んでいる。大方のみなさんは、なんで? と疑問に思うかもしれない。でも、そんなみなさんに問い返したい。 死は怖くないですか? 今、この記事を読み、思考をめぐらしているあなたが、金輪際いなくなってしまうことに根源的な恐怖をおぼえませんか? 思春期の頃まで感じていた怖れを理性で抑え込んでいるだけではありませんか? 死は万人に訪れ、どうにも抗えないもの。遠い未来の話で、今から悩んでも仕方のないものだと。 逆の視点に立つなら、アップロードを望むごく一握りの人々は、理性による抑え込みに失敗した人たちなのかもしれない。想い出話につきあわせて恐縮だが、中学二年のある秋の日の情景が、鮮やかな肌感覚とともによみがえる。放課後の陸上部の練習の帰り、当時住んでいた団地の一角にあった「てんとう虫公園」のブランコに揺られながら、死について友人と語り合った。話し始めた時点ですでにあたりは暗く、ブランコの鎖が手のひらに冷たく感じられたが、二人で夢中になって話し込み、気がついたときには身も心も、自慢の美尻も冷え切っていた。
死は怖くないか?
その八年後、高一以来の念願がようやく叶い、研究者の卵としての日々を謳歌していた修士一年の春、一泊の研究室旅行にでかけた。そして、その夜、宴会の席で同期二人を相手に「死にたくない論」を展開した。 「死への恐怖は、必ずしも、苦しみを伴う死のプロセスに対して向けられたものではない。存在から非存在への断絶の恐怖である。一方で、死んでしまえば何も感じない。よって、ここでとりあげる恐怖とは、こうして存在している自身が、死を境に、きれいさっぱり存在しなくなってしまうことに対する、あくまで存在の側が抱く感覚である」云々。酒のたすけも借り、明け方まで話は続いたが、完全な空回りに終わった。二十歳を超えてまだそんな話をしているのかと揶揄されたりもした。その後登場した言葉を拝借するなら、中二病ではないか、と。 実は、この話には後日談がある。この秋口に学科の同窓会があり、そのうちの一人と何十年かぶりの再会をはたした。私が話をふると、彼はその長い夜のことをよく覚えていた。それだけでなく、その内容が頭にこびりつき、いつの頃からか、死の恐怖を実感するようになったという。人生の折り返し地点を疾うに過ぎ、死=非存在がリアルなものとして迫ってきたらしい。 私とは流派がことなるが、生身の体で不老長寿を目指すハーバード大学のデビッド・シンクレア教授は、著書『ライフスパン―老いなき世界』のなかで、まさにこの観点から、死を説いている。医者として数え切れないほどの患者を看取ってきた彼は言う。死は決して生易しいものではない。若く、健康体で、死がまだ地平線のはるか彼方にあった時分の感覚はまったく当てにならない。死が目前に迫ると、患者の多くは死の恐怖に苛まれる。それまで封じ込んできたものが一気に吹き出す、と。 さきほど、アップロードを望まないと答えたあなたも、将来、宗旨変えしないと言い切れるだろうか。死の床にあったチャールズ・ダーウィンが、キリスト教に改宗し、進化論を説いたことを懺悔したと伝えられるように(※諸説あり)。