戦争語り継ぐサークル 終戦79年…学生たち「自分たちの言葉で伝える」【長野】
8月15日、終戦から79年を迎えます。戦争の体験を語り継ぐサークルを立ち上げた大学生。「自分が感じたことを自分の言葉で伝えること」の大切さを実感しています。 長野大学4年の栗林果穂さん。昨年度、山浦和彦副学長(69)のゼミに所属し、その活動の延長として今年度戦争を語り継ぐサークルを立ち上げました。 戦争体験者から話を聞いて冊子にまとめたり、小中学校で特別授業をしたり、自分の言葉で戦争の歴史を伝える活動をしています。 ■長野大学4年・栗林果穂さん 「おじいちゃんとおばあちゃんが戦争を経験しているんですけど、8月だけじゃなくて、日常的に昔はこうだったと聞いていた」 ■長野大学・山浦和彦副学長 「本来は家族の中で伝えられていけば、一番良いが…学生に戦争のことを問うと、結局、学校で習うことしか無い。心情的に距離がある、言葉は悪いかもしれないが、他人事みたいな雰囲気で戦争を捉えている学生、若者たちが多いと思う」 ゼミやサークルでは、戦争を経験した30人以上に話を聞きました。 上田市の西山ふさ江さん。東京の上野駅から地元に帰ろうとした時のことです。 ■朗読 「突然空襲警報が鳴ったんです。それも『上野駅近く!』と。みんなが改札口から出ようとして、後ろからどんどん人が押してくるんです。そして、目の前にいたはずの母子の姿が見えなくなりました。足の感覚では子どもを踏んでしまったような感じがしました」 東京大空襲を経験した、上田市の小林さえさんはー ■朗読 「毎日200機ほどの敵機がやって来て、昼間は爆弾、夜は焼夷弾攻撃を受けました。 爆弾が投下された後は、その爆風で立っていられないほど大きな竜巻が起きるのです。 爆撃で吹き飛ばされた人の遺体が電線に引っかかっていた光景が忘れられません」 聞き取りの中で、栗林さんの印象に残ったのは… ■栗林果穂さん 「やっぱり上田飛行場のことで、私は上田出身で上田で暮らしていたんですけど、上田千曲高校が昔、上田飛行場だったことを一度も聞いたことがなくて」 上田千曲高校とその周辺は、かつて、上田飛行場がありました。1940年から特攻隊員を訓練し、戦地に送り出していました。ここから、少年飛行兵を含む十数人が出撃し、帰らぬ人となっています。 ■栗林果穂さん 「戦争って言うと、東京とか大都市が被害を受けたイメージがあったが、都会だけじゃなくて地方の子どもや大人や本当に日本人全員が被害者にもなるし、加害者にもなる。皆が戦争に巻き込まれたんだと改めて感じて」 今年度取り組んでいるテーマは「疎開」について。長野県は集団疎開の候補地として、多くの人が訪れました。中でも上田市の別所温泉は特に受け入れが多かったといいます。 ■山浦和彦副学長 「大事なのは背景だよね。なぜ疎開をしなきゃならなかったのか」 ■栗林果穂さん 「最初は浅間温泉が候補だったけど、別所温泉になったとか」 ■山浦和彦副学長 「あーだから温泉場だよね、旅館が受け入れやすい」 集団疎開の資料は東京の立教女学院に保管されていて、来月、その調査に向かう予定です。 ■山浦和彦副学長 「お盆がきっかけになってもいいと思うんですけど、先祖を敬いながらね、今の自分は過去の先人の犠牲の上にあることを思い起こしながら、実は、と話をしてもらえたら」 ■栗林果穂さん 「国任せにしないで、一人ひとりが戦争とか政治に興味を持って、自分の意見を持つことが大事なのかなと」