タイガー超えのナイスガイ! 念願の日本で勝利したM・マクグリービー 松山英樹とも“直接対決”「本当に夢が叶った瞬間」
<ダンロップフェニックス 最終日◇17日◇フェニックスカントリークラブ(宮崎県)◇7042ヤード・パー71> あこがれの松山英樹とニッコニコ【写真】 1974年から続く歴史ある大会で、今年、優勝カップを掲げたのはトーナメントレコードのトータル22アンダーを記録した29歳のマックス・マクグリービー(米国)だった。 “米国男子ツアーメンバー”として来日したが、苦労人だ。2017年にプロ転向を果たすと、米国男子下部のコーンフェリー・ツアーを主戦場にカナダ、中国でも戦った。19年に中国で1勝を挙げ、20年には下部ツアーで初優勝を飾っている。その後は米ツアーでも戦い22年の「プエルトリコ・オープン」で2位。今季は再び下部ツアーでプレーし、年間2勝、ポイントランキングで2位となり来季は米ツアーに再挑戦する。 日本に来たのは、米国代表として出場した12年の「トヨタジュニア」以来の2度目。冠にもなっているダンロップとクラブ契約を結び、今大会の出場も自ら希望したという。「きっかけは2017年にプロ転向した時からスリクソンにお世話になっていて、それでこの大会を知る事ができた。いままでも出場したい気持ちがあったけど、実力不足、スケジュールも合わなかった。今年はスケジュールが早く終わったので、出場できるかも…と思って」。念願の日本ツアー参戦だった。 初日に「66」、2日目に「62」をマークし単独首位に立つと、決勝ラウンドでは松山英樹と同組で2日間ともにプレーした。米ツアー通算の勝利数は10勝を数え、21年には「マスターズ」を制覇。今年の「パリ五輪」で銅メダルを獲得した“格上”とのラウンドは心に残るものになった。 「本当に夢が叶った瞬間だなと思った。松山選手も世界でベストと言っていい選手だし、集中力や、自分のゴルフに対する取り組み、意識がとても優れている。そういうところを見て、学ぶことがあった。2日間も一緒にプレーできるとは思ってもいなかった。感謝しているし、プレーしている雰囲気、環境が本当に楽しいと思う週末になった」 最終日は松山に7打差をつけてのスタート。「もちろんプレッシャーはあった。というのもファンのみんなが松山選手の応援をしていたので。それは当然のことだよね、彼のホームだから。彼はとても良いショットをたくさん打っていたし、残念ながらパットがうまくいかなかったところもあったけど、実際の差よりは縮まってるような、そういうプレッシャーはあった」。結果的には4打差をつけて日本初優勝を飾ったが、圧倒されながらのプレーだったことを振り返る。 そんな緊張感を抱きながらも、4日間でボギーを打ったのは第1ラウンドの17番の1回だけ。松山も「4日間を1ボギーで回られたら厳しいですよね」と脱帽する。要因は集中力をキープできたことだった。「自分のメンタルが乱れることなく、しっかりプレーを続けられたと思う。悪いショットを打ったとしても、そこから挽回できたところが強みというか、そういうのもあって安定してできたのかな」。平常心を保てたことが、今回の好結果につながった。 今大会の歴代優勝者には1980年のトム・ワトソン(米国)、2004、05年のタイガー・ウッズ(米国)、16、17年のブルックス・ケプカ(米国)といったビッグネームが名を連ねている。そんな名選手たちを超えるトーナメントレコードで勝利し、自らの名前を歴史に刻むことができた。 「歴代優勝者のみならず、実際に出場した選手の名前も確認していた。その中ですごい人たちがいっぱい来ていたなという印象のなか、自分が優勝できたのはうれしい。また来年以降もここに戻ってきてプレーするのが本当に楽しみになった」。来年はディフェンディングチャンピオンとして出場する意欲も見せる。 「日本で優勝できて、とてもうれしい。日本でプレーし、歴史や、日本ならではということをたくさん感じられた。そして松山選手をはじめ、他に追ってくる選手たちになるべく近寄らせないようなプレーがしたいと思っていた。それを意識したことで、こうしてレコードを出すことができたのは満足しているよ」 来季は世界最高峰の舞台で戦っていく。その前に、今大会で「トップレベルの選手(松山英樹)とこのような状況でプレーできたのが、いい財産になった」と大収穫を得た。「今後はこわい気持ちというより、ワクワクした気持ちで臨めるかなと思う」。米ツアー再出発のシーズンは、以前とは少し異なる心持ちで挑めるに違いない。 最後は日本の報道陣たちに「ありがとう」と言ってニコリ。最終18番でもウイニングパットを決めるとギャラリーから大拍手、大歓声が巻き起こり、アテストに向かうときには電話で優勝報告をしながらロープ外にいるギャラリーとハイタッチを交わす姿が印象に残った。“ナイスガイ”な29歳は、一気に日本の会場で人気者になり、海を越えた先の世界の舞台に戻っていった。(文・高木彩音)