太平洋戦争も同じ図式? W杯の熱狂的報道と困難なナショナリズムのコントロールの関係
反撃能力の時代におけるナショナリズムのコントロール
サッカーはイギリス発祥で、そのためにイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの四つの代表が出る特別扱いとなっている。現在、世界的に人気のあるスポーツの多くは、アングロサクソンがそのルールをつくったのであり、これは植民地主義の結果でもある。 大英帝国の歴史をアメリカが受け継いでいると考えれば、ここしばらくの世界の紛争のルールもアングロサクソンがリードしているように思える。アングロサクソンの強さは、フランス(ナポレオン戦争)やドイツ(二つの世界大戦)あるいは日本(日露、日中、太平洋戦争)やソビエト(独ソ戦)のような猪突猛進的な強さではなかった。それは自国と他国のナショナリズムをコントロールしながら味方を増やす政治的な強さであり、クラウゼビッツの有名なテーゼ「戦争は別の手段による政治」ということをよく理解しているのである。 今、日本は、これまでの平和立国から転じて、反撃能力の準備を進めようとしている。 この「別の手段による政治」という状況の中で、現在の国家指導層に適切な指導力が期待できるだろうか。長期にわたる国力の凋落傾向と天文学的数字の財政赤字を止められない政治家たちにも、実戦経験のない自衛隊の幹部たちにも、むずかしいように思える。 もちろんどこの国の民主主義も完全ではないが、日本の民主主義は、目の前の表層世論に流され、長期的な視野による確固たる決断ができない傾向にある。 莫大な予算を投じて大量の兵器を整えることも必要かもしれないが、国内のナショナリズムが加熱することに巻き込まれることなく、国際的な政争と紛争に冷徹果断な判断のできる指導層を形成することが、喫緊の課題ではないか。それは個々人の能力の問題というより、人材の層の厚さの問題である。戦争を超える戦略こそ本当の戦略だと思うが、結局それはその国の文化の厚みと柔軟性(いいかえれば普遍性)に帰するのではないか。 以上、年末の列島で寒さに震えながらいろいろ考えていたら、中東のW杯と、東欧の戦争と、極東の反撃能力が結びついた 。世界は狭い。 今回のワールドカップから学んだことは、戦いにおいて選手(戦士)を鼓舞することと、作戦(戦略)において冷静になることとの両立が必要であること、そして報道者は常に、正確な事実と論理を伝える努力を怠るべきではないということだ。