人は「より良い暮らし」を目指すべきなのか…日常生活の「美しさ」への様々な向き合い方
日常美学の未来に向けて
今回の対談を通して、日常美学の将来に対する興味深い視点を見つけることができた、と私は感じている。日常美学が日常の「美」を追求する学問であるだけではなく、その「日常」を生み出す個人の生活や社会的背景を深く考察することによって、現代社会における人間の生活のあり方に対する新たな視点を提供できるようになるのではないか、と思われるのだ。 青田は、日常美学がもっと多様な議論を包摂するべきだと述べており、それに私は同意する。日常美学は、日常生活の「美的経験」をどのように捉えるかという点において、個別的な経験を尊重することが求められるだろうし、日常美学が西洋中心主義や男性中心主義に対するオルタナティブとして存在してきた経緯を踏まえると、今後はさらに多様な文化的背景や価値観を取り入れた議論が必要だろう。 私もまた、日常美学が多様性を取り入れることで、より広範な視野で人間の生活の美学を再考することを求めている。青田は、日常美学が個人のプレイスタイルや生活の方法論を尊重し、さらにその美的価値を深く掘り下げるべきだという立場を取る。生活は一つではなく、さまざまなプレイスタイルが共存することを前提にその美的価値を探ることが、今後の研究にとって重要である。
日常のさまざまな遊び方
青田との対談では、それぞれの「ふつうの暮らし」観が、180度といってもいいくらい異なっていることが分かり、非常に興味深い議論になった。とりわけ、私は、「遊び方」という視点で人生について考えていたのもあり、青田によるある種ゲーム的な鍛錬と達成を目指すような日常の遊び方に面白さを感じた。 青田:日常を生きているなかで、「あ、今いい感じだ」とか「このまま行きたい」とか、あるいは逆に「こう変えたい」という思いが出てきて、日常は「いじる対象」みたいになっているんですよね。 このように、つねに日常生活を評価し、よりよいものに仕上げていく過程は、ゲームプレイをその都度振り返り、さらによいプレイに向けて自分のスキルアップを目指していく「ゲーマー」的な態度になぞらえることができる。私は近刊「おもちゃ的自己 : 存在のモードの美学」(https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/records/2001106)において、人の生き方を「プレイスタイル」から分類する理論を提示している。物語的、ゲーム的、おもちゃ的、ギャンブル的な生き方がある、と主張するものだ。 かんたんに説明すると、物語的な生き方とは、過去を重視し、自分がやってきたことの一貫性を語ることを目指すような生き方であり、ゲーム的な生き方は、つねに成長を目指す未来志向の生き方、そして、おもちゃ的な生き方は、自分と他人をどちらもおもちゃ遊びのおもちゃにして、過去や未来を気にせずに現在に生きる生き方、最後に、ギャンブル的な生き方は、過去を振り払い、未知の未来をに自分を投げ込むような生き方だ。私は、人間は多かれ少なかれこの4つの要素を持ちながら、しかし、人によって異なる配分で生きている、と考えている。 例えば、私はかなりおもちゃ的な生き方であり、他人との遊びの中で、相手と自分がからかい合ったり、ちょっかいを出し合ったりするような関係を第一に生きている。それは、日常生活においても、急に雨に振られて雨に弄ばれたり、たまたま安かった野菜に振り回されて献立を変えたり、世界と自分がおもちゃ遊びの関係に入っている状態をもっとも幸福だと思う。つまり、私はよりよい暮らしを目指しはしないおもちゃ的な暮らしを楽しんでおり、青田はゲーム的な暮らしを楽しんでいるように思える。 この観点から考えると、ふつうの暮らしは一つではない。物語的な暮らし、ゲーム的な暮らし、おもちゃ的な暮らし、ギャンブル的な暮らしがある。それぞれの暮らし方はそれぞれの人に合っている。けれども、社会環境によって、人々は自分のプレイスタイルに合わない暮らしを強いられているケースもあるかもしれない。例えば、私は、もしも生活を改良していくことを要請されたとしたら、とても憂鬱な気分になるだろう。自分がしたいのはおもちゃ遊びであって、ゲーム遊びではない。同時に、青田が私のようにその場しのぎを楽しむ生き方を強いられたとしたら、それはかなり苦痛だろう。人には人の遊び方があり、それが尊重されるべきなのだ。 しかし、例えば、とりわけ労働においては「キャリア形成」だったり、あるいは生活では「資産運用」だったりと、未来志向のあり方が称揚され推奨される。私は、自分のキャリアにあまり興味はないし、資産運用にも(興味を出したほうがよかろうが)あまり関心が出ない。かくのごとく、私は例えば労働においては、イマイチ現在社会によくあるゲーム的なプレイスタイルには乗れないのだ。 私の例だけではなく、人々がうまく遊べなくなっている環境がきっとあるはずだ。暮らしの遊びがうまくいかなくなっている状態を批判していくこと。その作業もとても興味深く、価値があるもののように思われる。 今日の対談を一つのきっかけに、皆さんも日常美学をしていっていただけたらうれしい。
難波 優輝(美学者・会社員)