人は「より良い暮らし」を目指すべきなのか…日常生活の「美しさ」への様々な向き合い方
美的経験を意図的に味わうこと
青田と難波の対話の中で、日常の美的価値をどのように認識し、どのようにそれにアクセスするかという問題も浮かび上がる。青田は、日常の中にはすでに美的価値が潜んでおり、それを認識するためには意識的な努力が必要であることを指摘する。日常の行為における美的経験を意識的に捉えることは、単なる習慣から一歩踏み出して、それを美的な視点で再構築することであり、この点で「日常を美学的に認識する」という営みが重要になる。青田は次のように興味深い発言を行っている。 青田:嬉しい感じ……嬉しい感じかあ。うーん。改良して、その結果が大事というよりも、その改良の過程の方にむしろ、なんかある種の嬉しさ……嬉しいっていう言い方でいいのか分からないけど、なんかこう面白さとかを感じるのかなという気はしています。改良の過程っていうのは、要は自分の感性の働き方というか、感性の癖みたいなものを組み替えていく作業だと思っていて、組み替えの結果、どうなるかはちょっと分からないけど、その組み替えのプロセスみたいなものを楽しむみたいな、そういうのに近いかもしれません。 難波はこの議論を受けて、日常の美的経験を「意図的に味わうこと」に対して一種のパラドックスを指摘している。日常の美的経験を意識的に捉えようとすること自体が、もはや「日常」としての経験を超えてしまうという疑問が呈される。つまり、日常の美的経験は、無意識的に自然に味わうことこそがその真髄であり、「美的経験として意識的に味わうこと」は本質的に矛盾しているのではないかという考え方だ。この「意識的に味わうことのパラドックス」は、日常美学における深い問題を投げかけており、日常をどう扱うかという基本的なアプローチの問題に繋がる。難波は、こうした生活の意識的な味わいや改良には全然ピンと来ていない。 難波:今までのお話を合わせると、青田さんは、よりよい生活を自分のなかでイメージしながら、様々なアドヴァイスをTIPS的に組み合わせることで乗りこなしているんですね。青田さんが強調されるように、よりよい生活のモデルが外にゴロンとあるわけじゃなくて、練り上げていくっていうのはすごくよく分かるなって思います。とはいえ、自分に翻って考えた時に、全くそういうのがないなと思って(笑)。あらゆるものに関して、自分にとって理想めいたものがあまりないんですよ。 青田の「意識的に美的な価値を見出す」というアプローチと、難波の「自然に味わう」というアプローチは対照的であるが、どちらも日常美学の重要な側面を担っているように思われる。意識的に日常の美を認識することと、無意識のうちに美的なものを味わうことの違いをどう扱うかは、日常美学における大きなテーマの一つであり、それぞれの立場が持つ強みと限界がそこに見えてくるはずだ。