人は「より良い暮らし」を目指すべきなのか…日常生活の「美しさ」への様々な向き合い方
「ふつうの暮らし」の捉え方
対談の出発点は、日常美学における「ふつうの暮らし」の捉え方にかんする違いだ。青田は、日常生活における美的経験がいかにして生じるのかを探求する中で、生活の中での「改良」を強調している。青田が『「ふつうの暮らし」を美学する』で提案したアプローチは、日常的な行為や物事に潜む美しさを、美的な味わいを持つものとして捉え直すことで、生活をよりよいものにしていく、というものだ。掃除、料理、部屋づくりといった日常的行為を、美的な視点から再評価し、それをどう味わうかを考えることが重要だというのが青田の立場だ。 一方で、難波は「改良」概念に対して一歩引いた視点を示す。難波は、社会的な圧力や自己啓発的な文脈において、過剰な改良が求められる現代の風潮に対してかなり批判的だ。ある意味で難波は「マルキシスト」であり、あるいはカルチュラルスタディーズ的な観点を強く意識的にもっているため、「改良」が中立的な意味ではありえないのではないか、と疑っている。わけても、Vlogのようなコンテンツが提供する「理想的な暮らし」に対する無意識的な圧力に対して、個人は「憧れ」のようなかたちで反応すべきではないのではないか、と考える。 難波は、確かに、改良が常に外的な圧力から生じるものではないとしながらも、社会的な枠組みによって個人の暮らし方が左右される現実に注目し、その視点を通じて日常美学の可能性を再考している。ここで明らかになってきたのは、日常美学がたんに「美的な価値」を捉えるだけではなく、社会的背景や個人の生活の文脈を深く理解しなければならないという点である。 例えば、青田は本の中で、Vlogについて次のように語る。 たとえば、Vlogのなかで手際よく進んでいく一日の流れを目にしながら、私は自分の日常があまりに慌ただしく過ぎ去っていくことに焦りを覚えるのです。今日もやろうと思っていた趣味の時間を取れないまま終わっていき、そしてまた明日は早く起きて仕事に出かけて……と私の意に沿わない仕方で進んでいく生活に、虚しささえ感じます。(青田 2024, 233-234) これに対して、私は以前の記事【他人の「丁寧な暮らし」を見たときの焦りと憧れ…その「意外な正体」】で次のように指摘した。 Vlogの鑑賞者は、Vlogの中の暮らしに憧れと焦燥を抱く。こうした現象が私は気がかりだ。「私の生活はこれではだめだという気持ち」に納得のいかないものを感じる(青田 2024, 233)。青田が言うように「本当は、そもそも自分のやるべきことをある程度やって生きているだけで素晴らしいと、そう心から思いたいのですが」(青田 2024, 250)という言葉の前半に賛同する。私たちは「やるべきこと」を「やって生きているだけで素晴らしい」のだ。 二人の立場の違いは次の議論でさらに際立っていく。