人生を「犠牲」にしてでも小説を読んでしまうことに「意味」はあるのか……問いかけ直して見えてくる、小説への「愛」
「読む」とは何か。小説の存在意義とは。 鬼才・野﨑まどさんによる4年ぶりの最新長編『小説』には、その答えがすべて詰まっている――。 【画像】なぜ小説を読むのか大胆に問いかける衝撃作 今回は『小説』の魅力を、小説家の小川哲さんに紹介していただきました。 野﨑まど『小説』 五歳で読んだ『走れメロス』をきっかけに、内海集司の人生は小説にささげられることになった。 一二歳になると、内海集司は小説の魅力を共有できる生涯の友・外崎真と出会い、二人は小説家が住んでいるというモジャ屋敷に潜り込む。 そこでは好きなだけ本を読んでいても怒られることはなく、小説家・髭先生は二人の小説世界をさらに豊かにしていく。 しかし、その屋敷にはある秘密があった。
何度も問われる、小説を読む意味
「僕たちはどうして小説を読むのだろうか」 とにかく小説が好きで、鞄に本が入っていないと不安になるような人なら、一度ならず考えたことがある問いだろう。 「本は読むけれど、ノンフィクションしか読まない」という友人がいる。「小説を読んでも意味がない」という。言いたいことはわかるような気もするし、とはいえ反論したくなる気もする。その一方で僕の父のように、学生時代から数千冊も小説を読んでいるのに、金属を加工する会社で働き、およそ文学と関わりのない仕事をしたまま定年退職してしまう人もいる。 先が気になって閉じる機会を失い、睡眠時間を削って頁を捲る。翌朝、どうして夜更かしなんてしてしまったんだろうと頭を抱えながらも、結局また同じことを繰り返してしまう。どうしようもなく小説が好きな人は、どこかで自分の人生を犠牲にしながらも、それでも読書を止めることができない。でも、そのことに意味はあるのだろうか? 本作の主人公である内海集司は、五歳のときに読書には「父親を喜ばせる」という意味があることを知った。そうして「意味のある」読書を続けていくうちに、彼は読書そのものの面白さに目覚めていく。そんな内海は外崎という友人に読書の楽しさを伝え、二人の小学生は読書にのめりこんでいく。二人は小学校の隣にある大きな屋敷に「有名な小説家の先生」が住んでいるという噂を聞き、通称「モジャ屋敷」に侵入する。そこで「髭先生」という小説家に出会い、彼の書庫にある小説を好きに読んでいい、という許可を得る。 あらゆる趣味と同様に、本来であれば小説を読むことに意味など必要ない。好きだから、楽しいから小説を読むのであって、それ以上のもっともらしさは要求されない。僕たちが小説を読むことに意味を求めるのは、(小説を読むことで)自分の人生に影響が生まれてしまう瞬間だ。たとえば深夜の読書のせいで寝不足になり、会社に遅刻したとき。就職活動で「趣味」の項目に「読書」と書いたとき。本の買いすぎでお金がなくなったとき。 ただ小説が好きで、ひたすら読書を続けていた内海と外崎も、「高校受験」というタイミングで小説を読むことの意味を問われてしまう。入試には国語以外の科目も必要で、ただ読書をしているだけでは、希望する進路に進むことはできない。そこで二人は「小論文」という道を模索する。これまでただ好きで本を読んできたことに、意味を付与しようと試みる。