新聞・テレビはいつまで「偽りの中立」を続けるのか…「報道の自由」を自ら手放したマスコミの末路
■ジャーナリズムに求められる中立的行動 与党と野党の中間に立ち、どちらの陣営にも与(くみ)しない立場で双方を等しく監視する。 政権与党や現職の都道府県知事だけが不利になるような、一方的な批判は「控える」。 一見すると、こうした「中立的立場」はバランスのとれた姿勢で、良識的な態度であるかのような印象を受けます。対立する双方の意見に耳を傾け、「与党のやり方にも問題はあるが、野党の側にも問題がある」という風に、双方の問題点を等しく指摘するという態度は、形式的には「バランスのとれた中立であるかのように見える」からです。 しかし、これは大きな間違いです。 なぜなら、政権与党や現職知事などは、国民や市民の生活を大きく左右できる「権力」を持っており、その大きな力をどう使っているかをジャーナリズムが厳しく監視することこそ、社会全体のバランスを均衡させるために必要な「中立的行動」だからです。 司法や検察に求められる中立が「法理に対する中立」であるのと同様、ジャーナリズムに求められる中立とは「公正(フェアネス)に対する中立」です。 ■大手メディアの判断基準はズレている 権力を持つ与党や現職知事と、権力を持たない野党や批判的な市民の「ちょうど中間に立って双方の問題を指摘すること」が中立ではなく、誰が政権与党や知事になっても、等しく「権力に批判的な監視の目を向ける」ことが「公正に対する中立」です。 例えば、図表1を見てください。 この図で説明すると、大きな力を持つ側のA(政権与党や現職知事、大企業など)が、中間にある破線(法律など)を越えてはみ出し、力を持たない側のBを圧迫・抑圧するような事態が起きている時、ジャーナリズムがとるべき「公正に対する中立」とは、「Aは越えてはならない一線を越えてBの存在を圧迫し、Bの権利を侵害している。ただちにAは一線の右側まで戻らなくてはならない」と厳しく批判することです。 この態度は、Aが誰であっても等しく行うことによって「真の中立」となります。 けれども、現在の日本で大手メディアがやっていることは、中央の破線を踏み越えて横暴に振る舞うAと、それに蹂躙(じゅうりん)されるBの「ちょうど中間」に立って「AとBの双方の意見に公平に耳を傾けて、どちらの側にも与しない」という態度です(丸の点線)。 これは、図を見れば誰でも気づくように、中立に見せかけた「偽の中立」です。