藤原行成「道長も一条天皇も信頼」驚異の論破力。幼少期には後ろ盾を失うものの、着実に出世を勝ち取る。
出世の背景には、「四納言」では最年長の俊賢からの推挙があったと伝えられている。そんな幸運に恵まれたのは、家運が傾くなかでも行成が腐ることなく、誠実に働いていたからこそだろう。 翌年の長徳2(996)年には、行成は権左中弁に任じられている。藤原伊周が花山院に矢を射るという前代未聞の「長徳の変」が起きた年である。伊周が失脚して、道長が確固たる地位を築いていくなかで、道長を支える行成も力をつけていくことになった。
蔵人頭とは、いわば天皇の秘書官長であり、行成は一条天皇の最も傍にいたといってもよい。そのため、道長にとって「ここぞ」という正念場で、蔵人頭である行成が一条天皇の説得役として、大いに活躍した。 道長が娘の彰子を一条天皇の中宮にしようとしたときも、行成の弁舌が光った。一条天皇にはすでに中宮の定子がいた。このうえ、彰子まで中宮になれば、1人の天皇に2人の后がいることになってしまう。 「一帝二后」は前例がないうえに、一条天皇は定子を寵愛し、すでに第1皇女の脩子内親王と、第1皇子の敦康親王も生まれていた。一条天皇としては、宮中をざわつかせてまで、道長の娘・彰子を中宮にする理由は一つもないように思えただろう。
■彰子を中宮にさせた「巧みな論理」とは? はたして行成は、どんなふうに説得したのか。まず、中宮とは本来、神事に奉仕するために設けられていることを強調。現状の問題点をこう説明した(長保2〔1000〕年1月28日付『権記』より)。 「現在の藤氏皇后は、東三条院・皇太后宮・中宮みな出家しているので、氏の祀りを務めない」 定子が出家してしまっているため、本来の中宮の務めを果たせていないというのだ。中宮の意義に立ち返った、もっともな理論展開だといえるだろう。
そして「我が朝は神国である。神事を先とすべきだ」と畳みかけている。ちょうど大水、地震などの怪異が続いていただけに、一条天皇としてもそこを突かれると、痛かったに違いない。 さらに行成は、すでに出家して神事に携われない定子が、中宮のままでいることが、むしろ異例だとまで言った。 「中宮は正妃であるとはいっても、すでに出家されている。そのため、神事を勤められない。特別な天皇の私恩があるというので、中宮職の号を停止されることなく、すべて封戸を納めているのです」