ロールス・ロイスの「ロールズ」と「ロイス」の才能を結びつけた男…スピリット・オブ・エクスタシーを発案した「クロード・ジョンソン」とは
従来より自動車税の安い小型モデルを製造
1914年から1918年にかけて、ロールス・ロイスは航空機用エンジンの生産に専念した。しかしクロード・ジョンソンは戦闘が終結する前から、彼はシルバーゴーストのような大型で複雑かつ高価な自動車は戦後の緊縮財政下では魅力が失われることを予見していた。そのため、彼はオーナーが自ら運転するのに適した小型モデルを提案し、ロイスはこれを受けて新型の「20 H.P. キャニリー」を完成させた。クロード・ジョンソンは、RAC(英国自動車クラブ)が定めた馬力単位ごとに課される新しい自動車税では、シルバーゴーストには年間47ポンドの税金が課されたが、新型20 H.P.には20ポンドしか課されなかった。 クロード・ジョンソンはロールス・ロイスにさらに2つの大きな貢献をした。まず、ロイスが従来のパンテオンラジエターのデザインをより流線型のものに変更することを提案した際、クロード・ジョンソンはそれを思いとどまらせることに成功したことである。次に、1925年にシルバーゴーストの後継モデルが完成した際、彼はかつてのトライアルカー2台の名称であった「シルバーファントム」と名付けた。このファントムという名称は8世代を経て、2025年にはこのブランドの歴史上最も有名な車名として100周年を迎えることになる。
親しい英国の画家がクロード・ジョンソンを表した言葉とは
1926年4月6日、クロード・ジョンソンは体調不良を感じていたにもかかわらず、いつものようにオフィスに出勤していた。翌日体調はさらに悪化したが無理をして姪の結婚式に出席し、そこで倒れた。娘のベティにクルマで家まで送ってもらったが、その道中、彼は「自分は助からないだろう」と話し、また「葬儀には騒ぎも花もいらない」と告げた。4月11日、彼の死は全国紙やBBCによって報道され、それはロールス・ロイスにとって彼がどれほど重要であったかを表したものであった。ロイスは旧友の死に深く心を痛め、「彼は船長であり、私たちは乗組員にすぎなかった」と語った。 仕事に対する熱意と見せかけの派手さとは裏腹に、クロード・ジョンソンは個人的には謙虚で、非常に慎重な人物であった。自分の懐を肥やすと非難されることを恐れて、彼は会社の株式を保有することはなかった。また、ロールス・ロイスの自動車を所有することもなく、つねに会社の試験用車両を使用していた。戦争への貢献を称えられナイトの称号をオファーされた際には辞退し、その称号はロイスに与えられるべきだと述べた。彼はつねに賞賛を受け入れることを嫌った。 娘のティンクは、彼を次のように表現している。 「あらゆる面で大きな人物だった。身長は6フィート2インチ(188cm)で均整がとれ、大きな手は美しかった。素晴らしい父親で、いつもきちんとした服装をしていた」 しかし、この傑出した人物を最もよく表しているのは、親しい友人である英国の画家、アンブローズ・マケボイの「賢く、親切な巨人」という言葉かもしれない。
【関連記事】
- 【画像】ロールス・ロイスの元祖天才マーケター!「クロード・グッドマン・ジョンソン」を見る(9枚)
- ◎29馬力アップ! ロールス・ロイス新型「ブラックバッジ ゴースト シリーズII」誕生…V12のパワーを魔法の絨毯で堪能するためのサスペンションとは
- ◎ロールス・ロイスのマスコットを最初に車両に掲げた「モンタグ」とはどんな人物?「スピリット・オブ・エクスタシー」のモデルとの公言できない関係とは
- ◎人はなぜ「◯◯界のロールス・ロイス」を目指すのか? 最高であり文化の香り漂うのは「ベル・エポック」という豊かな時代に誕生したから!?
- ◎ロールス・ロイスの成功の陰にあったサクセス物語。機械の心を読める天才テストドライバー「アーネスト・ハイブス」とは?