ロールス・ロイスの「ロールズ」と「ロイス」の才能を結びつけた男…スピリット・オブ・エクスタシーを発案した「クロード・ジョンソン」とは
陽気なクロード・ジョンソンと厳格なロイス
陽気で社交的なクロード・ジョンソンと、生真面目でやや厳格なエンジニア、ロイスには共通点がほとんどないと思われがちである。しかし実際には2人は親しい友人であり、互いの誠実さを尊重していた。ロイスが最高の自動車を設計したいという尽きることのない欲求を抱いていたことは、クロード・ジョンソンがロールス・ロイスというブランドを人々の意識にしっかりと根付かせ、事業を円滑に運営する能力を備えていたことで完璧に補われていた。 実際、クロード・ジョンソンがロイスの命を救ったと言っても過言ではない。ロイスは1911年に長年の過労と不摂生が健康に深刻な影響を及ぼし、余命3カ月と宣告された。ダービーの工場はストレスの多い環境であったため、クロード・ジョンソンはロイスのためにイースト・サセックス州クロウボローに家を見つけた。 南フランスの療養旅行では、クロード・ジョンソンが所有する緑とクリーム色の美しいリムジンで、別荘ヴィラ・ジョーヌに立ち寄った。ロイスはこの場所を気に入り、冬の間はここで楽しく過ごせると言った。クロード・ジョンソンはさらに近くの土地を購入し、ロイスが設計した3軒の家を建てた。ヴィラ・ミモザはヘンリー自身が住むためのもので、ル・ビューローはデザインスタジオとして、そしてル・ロシニョールはデザイナーたちが住むための家として建てられた。ロイスにとって、デザイナーたちが身近にいることは非常に重要であった。そうすることで、デザイナーたちがそれぞれのビジョンを迅速に現実のものにできると考えたのだ。ロイスは1933年に亡くなるまで、イギリスとフランスを行き来する生活を送った。 クロード・ジョンソンは、仕事に対する意欲が衰えることがなかった。1912年にはアダム様式でルイ16世様式の家具を備えた販売ショールームをパリにオープンした。同年、「シルバーゴースト」のオーナーであるジェームズ・ラドリーが過酷なオーストリア・アルプス・トライアルに挑戦したが完走できず、怒りに燃えたクロード・ジョンソンはこの屈辱を晴らすことを誓った。翌年には、再設計した4速ギアボックスを搭載した3台のワークスチームをエントリーさせ、クロード・ジョンソンが企画した競技イベントでほかのクルマを圧倒した。この時期、クロード・ジョンソンはロールス・ロイス製自動車の3年保証を初めて導入し、従業員向けの年金制度も設立した。
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