エース石川祐希が初めて綴った<本音>。パリ五輪出場権獲得の瞬間の心境は「喜び」より実は…
◆オリンピックに出たい、メダルを獲れる選手になりたい オリンピックの出場権を獲得したら泣くだろうなとは思っていたけれど、やはりここでももらい泣きしてしまった。 キャプテンとして、最初にコートインタビューへ呼ばれた。 オリンピック出場権を手に入れた、今の気持ちを聞かせて下さい、と言われ、僕はありのままの思いを言葉にした。 「目標を達成したので、すごく嬉しいです。最高のメンバーで、自分たちの強さを証明することができました」 話しているうちに胸が熱くなって、また、涙が込み上げた。 僕はいつだってバレーボールが大好きで、バレーボールをしているだけで楽しいけれど、目標を成し遂げることができたこの喜びは、何物にも代えられないぐらい最高のものだった。 振り返れば、僕が日本代表選手に初めて選ばれ、プレーしたのは2014年。 当時はまだ中央大学の1年生で、日の丸やオリンピックの重みなど、まるでわかっていなかった。 自分よりも年上の先輩たちに囲まれて、何をすればいいのか、この大会がどれぐらい価値があるものなのかもきちんと理解しないまま、ただ全力で自分のいいパフォーマンスを発揮するために必死だった。 1つずつ、目の前の試合を戦うなかで、アジア大会、ワールドカップ、世界選手権など、いろいろな経験を重ねてきた。 2016年にはリオデジャネイロオリンピック出場に向けて予選に出場したけれど、 勝つことはできず、8月にブラジルで開催された大会を現地で見て、僕は初めてオリンピックのすごさを知った。 そして、そのとき初めてこう思った。 「オリンピックに出たい。出て、ここでメダルを獲れるような選手になりたい」5年後、1年の延期を挟んで2021年に東京オリンピックが開催された。
◆「世界の頂」を目指すコートの上で思うこと… 僕は日本代表のキャプテンとして東京オリンピックのコートに立ち、目標だったベスト8進出は果たした。 でも、時はコロナ禍(か)で、大会は無観客での開催だった。 オリンピックはどれほど熱狂する舞台なのか。 僕はまだ、満員の観客が押し寄せるオリンピックのコートに立った経験がない。 日本代表に選ばれた2014年、初めてイタリアのモデナに入ってセリエAを知り、バレーボールがこれほど熱狂するスポーツなのかということを現地で実感した。 そして、大学在学中の2016-2017シーズンと、2017-2018シーズンはラティーナ(現チステルナ)で、大学卒業後、2018年からはプロになり、シエナ、パドヴァ、ミラノとイタリアで9シーズンを過ごしてきた。 コッパ・イタリアや、セリエA1リーグのプレーオフ(リーグ戦上位8チームによる優勝決定戦)。 熱気に満ちた大舞台で、最高のパフォーマンスをする喜びも味わった。 1つずつステージが上がるたび、「次はこうなりたい」「こうしたい!」と新たな目標を立て、最大限の努力をして叶(かな)えてきた。 バレーボールを始めた小学生のころは、「日本代表になりたい」と考えたこともなく、オリンピックにも興味はなかった。 ただ大好きなバレーボールを全力で楽しみ、そのときどきの、さまざまな「頂(いただき)」を目標として、それを超えてきた。 そして、もう間もなくパリオリンピックが開幕する。 2024年7月、僕は「世界の頂」を目指すコートの上で、どんな思いを抱くだろうか。 ※本稿は『頂を目指して』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
石川祐希
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