櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:1000点の仮面をつくった男
静岡県の東伊豆町にある温泉地・熱川温泉。至る所から湯煙が立ち昇る街の風景は、昔ながらの温泉情緒を感じさせてくれる。地熱を利用した熱川バナナワニ園は駅の西側に、そして駅のすぐ北側にあるのが今回の目的地である私設博物館「日本仮面歴史館 福々和神面」だ。 簡素な外観の建物に足を踏み入れて驚いた。能や田楽や仏面など、大小さまざまな仮面が館内の至るところに展示されている。その数、約700点。四方八方から注がれる数多の視線に、まるでこちらが仮面に見つめられているような錯覚さえ覚えてしまう。 「45年以上かけて、全部ひとりで制作したものです。この建物はB館で、A館のペンションには300点ほどあり、生涯の目標にしていた累計1000点の仮面制作を2023年の末に達成しました」。 そう声をかけてきたのは、館長を務める木村賢史(きむら・けんし)さんだ。木村さんは、1943年生まれで5人きょうだいの次男として、この街に生まれた。 木村さんの祖父・弥吉は、東伊豆町で絹サヤエンドウの早生栽培に成功し財を築くとともに、各地に旅館を建てて熱川を全国有数の観光地にするなど、東伊豆町の発展に尽力した偉人として、その妻・さとは70年代初頭に一世を風靡したテレビドラマ『細うで繁盛記』のモデルとして知られている。 「弥吉の息子で、僕の叔父・木村亘は、熱川バナナワニ園を創業しました。先達がそういうことをやってきたので、これからの観光業として大切なのは自国の優れた文化だなと思って、自国の仮面を中心に制作をしているわけです」。 小さい頃は、モノづくりよりも自然が大好きだったという木村さんは、よく海に潜って遊んでいたという。地元の高校を卒業したあとは、兄と同じ法政大学へ進学。高校から大学卒業までは、剣道に熱中し、目黒区剣道連盟の昇段試験会場では、三島由紀夫と一緒になったこともあるのだとか。 大学卒業後は、熱川に戻り、父が創業した土産物店「つくし」の手伝いを始めた。兄が経営していた店舗を受け継いだのは、1970年ごろのこと。当初は形状にとらわれない自由さが特徴の「近代こけし」や自筆の凧絵などを目玉商品として販売していたものの、次第に他の店舗でも類似商品が置かれるようになり、簡単に真似されないものはないかと目をつけたのが「仮面」だったという。 「近場の観光地を視察している際に、伊東市で魔除けの人形『どんどろ』をつくっている人に出会って、しばらく通わせてもらったんです。そしたら、先生から『俺が10年掛けてやってきたことを、お前は1ヶ月で習得した。俺の弟子になれ』と絶賛して頂いたんですが、お断りしましたね。あまりにも世界が違いすぎると思ったんで」。 当初は販売目的で始めたものの、つくっていくうちに制作へ没頭するようになり、1978年ごろから自分だけの仮面制作を志すようになった。1000点のうち、これまで販売した仮面はひとつもないという。 本業の土産物店は、大きな旅館が売店を構えるようになり、木村さんのような路面店での売り上げは一気に減少。そこで1985年7月からはペンション「つくし館」として経営方針を転換。海水浴のグッズや土産物販売に加え、レストラン経営も行うようになったことで、最盛期はアルバイト5人ほど雇用するくらい繁盛したという。 従業員が増えたことで木村さんは一層創作へ打ち込むことができるようになり、作品点数は右肩上がりで増えていった。当初は店内に飾っていたが、それでも置き場所に困るようになり、従兄弟が使っていた店舗を借り受け、2001年7月に「日本仮面歴史館 福々和神面」をオープンし、2号店とした。 和紙を木質化するPCウッド工法という独自のやり方を考案し、材料から時間をかけて制作していく。木村さんがつくる仮面の多くは、本物の仮面を再現したもので、展覧会の図版資料や写真を参考にしたり、ときには現物を目に焼き付けて記憶し、帰宅後に再現したりすることもあるのだという。ノミやサンダーを使って形を整えたあとは、自分なりに想像して制作当時の仮面の彩色を施していく。たくさんの仮面をつくっていくうちに、人の顔を見て、その人の素質や性格を割り出す観相学も習得していったのだという。 「そっくりにつくろうとするんですけど、でもできないんですよ。これまで制作された仮面などを調べていくうちに、いかに過去の先達の人たちの技術が凄いものだったのかということに気づいたんです。それからは、開き直って俺は俺だと考えるようになりました」。 仮面の表情を極端にデフォルメしたり大きさを変えたりと、様々な工夫を施していった。300点の仮面を制作することを目標にしていた頃は、トイレに行くのも我慢して集中しており、制作のしすぎで腱鞘炎になったこともあったようだ。1000点の仮面のなかで、木村さんが創作したのはわずか20点ほどだが、なかでも目を引くのが高さ1.8メートル、幅1.2メートル、奥行き1メートルの大作「青龍面」だ。熱川温泉の由来を空想し、自身の娘の顔をモデルに作成した。なんと重さは350キロもあるのだという。 「つくり終えたとき、達成感はあるんですが、1週間ほど眺めているとがっかりするところが見えてくるんですよね。それが次の原動力になっている感じです」 木村さんがいうように、創作の魅力とは、自らが挑戦していることに絶対に満足することがないという点にある。この終わりなき探究こそが、これまでどれだけの人たちを奮い立たせてきたことだろう。「自国の文化を粗末にする民族は滅びる」という原理原則に基づいて、木村さんは仮面制作を続けてきた。木村さんが制作した日本各地の仮面を眺めていると、ひとつとして同じ仮面がないことに気づく。悠久の歴史のなかで、それぞれモデルとなった仮面は、日本各地の人たちが芸能や祭りを行うときの必要性に駆られ、制作されてきたものだ。仮面のつくり手だけでなく、それを使う人や地域の受け手たちの声が反映されて、少しずつ改良され、造形的な変化をもたらしていったのだろう。 そうした地域の人々の主体的な創造性こそが、こうした仮面文化を生み出したのだと想像を巡らせたとき、木村さんがその生涯をかけて1,000点もの仮面をつくり続けたことも何となく僕には理解できる。それだけの歴史や文化を背負っているからには、途中で投げ出すことなんてできなかったのだ。 気づけば、木村さんのお話を伺っている間に、すっかり日も暮れていた。1000点を達成した現在は年齢的なこともあって制作の手を休めているというが、その饒舌さだけは、まだまだ止まらないようだ。
文=櫛野展正