私の人生を大きく変えたキューバ革命=夢にも考えていなかったブラジルへ サンパウロ州ピラシカーバ市 安藤晃彦
日本の大学給与は16ドル、ブラジルで700ドル⁈
やがて私はサンパウロ中心のカンブシ地区にあった日本人下宿に移り、昼間は数軒かけ持ちの数学の家庭教師をやり、生活が安定したところで夜は外国人向けのポルトガル語学校に通うことになった。こうして一年が経ち私も何とかポルトガル語が理解できるようになり、本格的な職探しが始まったが、当時のブラジルは技術者にとっては売り手市場であって、職探しにはあまり苦労をしなかった。 ややあって、ピラシカーバという町の州立農科大学遺伝学科で、放射線遺伝学の新しい講座を開くにあたり専門の研究職員を探しているというニュースが耳に入り、それが私の日本での専門の研究分野でもあったことから興味を抱き、その遺伝学科を訪れてみることにした。ピラシカーバは今でもそうであるが、緑の多い閑静な又学校の多い町でもあり、更に農科大学は一千ヘクタールという日本では想像もつかない広さを持っており、私は一目でこの大学が気に入った。 当時の遺伝学科主任教授はナチスからブラジルへ逃れて来たユダヤ系ドイツ人であったが私に興味を持ち、ポ語、英語、独語を交えた面接雑談の後、割合簡単に採用が決まった。初めは特別奨学生として奨学金を貰ったが、それが当時のドル換算では何と700ドルで、日本ではたったの16ドルちょっとしか手にしていなかったことを思い出すと、将に雲泥の差であった。その後、農業原子力センターが大学内に創設され、私も微力ながら協力を惜しまなっか。 こうして私の長い研究者、教員としての生活が始まり、70歳定年までの40数年間に亙ってブラジルでのこの新しい研究分野の普及と、学部大学院を通して数多くの人材育成に多少なりとも貢献出来たことは幸いである。 長い人生を振り返った時、「もしもあの時…」と云う言い方はあまり意味がないかも知れないが、それでも敢えて言うと、キューバ革命が私の人生の一つの主な分岐点であったことには間違いない。もしキューバに行っていたら、政府側の一員として或いは銃殺されていたかも知れない。 又ブラジルへ行くのを夢見ていた妻と知り合うチャンスは金輪際ありえずゼロ、そうなると現在の息子娘四人、可愛い孫五人もこの世には存在しないことになる。又、ブラジルでの教師冥利に尽きた大学教員研究生活や社会生活を通じて、多くの友人知人を得ることもなかった。 こうして見るとキューバ革命は、多くの人々の人生に色々な影響を与えたであろうが、それに隠れた一人の私の人生をも根本的に変えた出来事であった。その変化がプラスであったろうかマイナスであったろうかは知る由もないが、少なくともブラジルにとってはプラスであった事と信ずる。