私の人生を大きく変えたキューバ革命=夢にも考えていなかったブラジルへ サンパウロ州ピラシカーバ市 安藤晃彦
キューバ渡航準備中に「ハバナ陥落」の報
年が明けて一月も終わりかかった頃、何気なく新聞朝刊を見ると、〝ハバナ陥落、キューバ革命成る〟とあるではないか。当時のキューバのバチスト政権はアメリカが後押ししていたこともあって、まさか敗けるとは夢にも思っていなかっただけに吃驚仰天、早速キューバ領事館にロドリゲス領事を訪ねた所、既に領事館は2台の立派な外車ともどももぬけの殻で誰一人居らず、あの時の落胆ぶりは一生忘れないであろう。 ちょうどその時、気落ちしていた私を見て、高校時代の友人が「自分の伯父の知人がブラジルに居るから、ブラジルに行ってはどうか」と声をかけてくれた。私が当時ブラジルに関して抱いていた知識といえば、世界一大きいアマゾン川があり、日本人移民が多く住んで居て、マラリアが猖獗している国ぐらいのものであった。 しかし、世界地図を見ると、キューバもブラジルも大西洋に面していて、地図ではそんなに遠く離れてはいないように見えたし、キューバに行く代わりにブラジルに行くのも大して違いはないと安易に思い込み、夢にも考えて居なかったブラジルに舵を変えることに決めた。この舵取りで、私の人生は大きく変わった訳である。早速今度はポルトガル語四週間を購入してポルトガル語の勉強を始めた。
外貨50ドル持ってブラジルへ
当時ブラジルに行くのは、技術者の証明さえあれば割合と簡単であった。旅行社に調べてもらった所、ブラジル行きの移民船ブラジル丸が6月4日に横浜を出帆するとのこと、それまでの4カ月間は、渡航準備その他で目が回るほどの忙しさだったが、こうして将に渡りに船とばかりブラジル丸に乗り、考えても夢にも思っていなかった未知のブラジルへと、当時の許可最高額の持ち出し外貨50ドルを懐にして旅立った次第である。 この貴重な外貨も、船中で貧乏留学生に泣きつかれて「アメリカに着いたらすぐに返す」という約束で20ドルを借したので、残り僅かに30ドルであった。勿論今になってもこのお金は返ってこない。 40日間に及ぶ船内生活は、私は船長から船内新聞係を任命されていたので、今考えると割合充実したものであった。取材と称して船内どこへ出入りしようとお咎めなし、新聞記者の醍醐味を満喫したのは私の人生で後にも先にもこの時だけである。 この時、ただ一人サントスに迎えに出て呉れたのが、高校時代の友人の伯父の紹介による、当時サンパウロで手広く八百屋を経営していた移民一世の方であった。 いくらなんでも所持金30ドルでは手も足も出ず、彼の家に二週間ほど、生まれて初めての居候う生活をして大変な迷惑をかけた。しかしせめて居候う代の一部にでもと思って、私は暇を見ては中学生の息子さんの数学を見てあげた。 彼は、私のその後の永いブラジルでの教師生活を通じての教え子第一号であり、現在はブラジル日本文化福祉協会で活躍中の山下譲二氏であるが、真にご同慶の至りである。