ドイツの傑作砲8.8cm高射砲シリーズの原点となった砲を複製【4式7cm半高射砲】
かつてソ連のスターリンは、軍司令官たちを前にして「現代戦における大砲の威力は神にも等しい」と語ったと伝えられる。この言葉はソ連軍のみならず、世界の軍隊にも通用する「たとえ」といえよう。そこで、南方の島々やビルマの密林、中国の平原などでその「威光」を発揮して将兵に頼られた、日本陸軍の火砲に目を向けてみたい。 日本陸軍は、1928年に88式7cm野戦高射砲を完成させた。ちなみに制式名称上は「7cm」とされているが、実際の口径は75mm、つまり7.5cmで、当時としては世界水準以上の優れた高射砲であった。しかし1941年に始まった太平洋戦争時には、航空機の性能向上に鑑みてこの7.5cmという口径は、威力の点で劣弱化しつつあった。 そこで日本陸軍は、同じ口径7.5cmながらより高性能の高射砲として、中国で鹵獲(ろかく)したスウェーデンの名門兵器メーカーであるボフォース社製の75mm高射砲Lvkan M1929に着目する。同砲は、第一次世界大戦に敗れたドイツがヴェルサイユ条約によって重兵器の開発・生産を禁止されたことから、同国の老舗兵器メーカーのクルップ社が、ボフォース社に協力して開発したものだった。 だがドイツはLvkan M1929の性能が気に入らず、採用には至らなかった、その代わり、より高性能の8.8cm高射砲、いわゆる「アハト・アハト(ドイツ語で「はち・はち」の意)」シリーズの開発へと歩を進めることになる。しかしボフォース社は同砲の外国への売り込みを続け、中国が購入したものが日本軍の手に入ったというわけだ。 かくして日本陸軍は、Lvkan M1929をコピーすることにした。もちろん完全なコピーではなく、性能に影響を及ぼさない範囲で、日本側が造りやすいようにする程度の手は加えられた。こうして試作砲は1943年に完成し、翌1944年に4式7cm半高射砲として制式化。その性能に目を向けると、88式の最大射程が13500mなのに対して4式は17000m、最大射高も88式が9000mなのに対して4式は11000mと、同じ口径75mmながらかなりの性能差が生じた。 このような高性能が評価され、4式7cm半高射砲は戦車砲のベースにもなり、5式7cm半戦車砲が開発されている。しかし肝心の高射砲のほうは、わずかに70門前後が生産されたにすぎなかったという。
白石 光