自民党総裁選に見る「孫たちの政争」 「血脈と地脈」の日本政治
日本政治の「血脈と地脈」
そう考えてみると、現代日本の政治地図に、明治以来の政治地図が反映されているようだ。2世3世議員は、減るどころかむしろ増えている。日本社会には政治的「血脈と地脈」とでも呼ぶべき、血筋と土地に根ざした人間の情念の伏流が存在し、選挙地盤として、後援会組織として、義理人情の蓄積として、脈々と受け継がれている。民主主義とはいうものの、日本の政治は、個々人の思想や主張よりも、その「血脈と地脈とその延長としての情緒」によって票が集められ、派閥が形成され、総理大臣が決められ、内閣が構成されているのだ。 一般的なサラリーマン、学者、芸術家、技術者などは、そういった日本の「血脈と地脈」とはほとんど無縁である。学生運動や労働運動が盛んだった時代には、マルクス主義的な思想によって、政治参加(サルトルのいうアンガージュマン)の意識をもつことができたが、今はきわめて希薄になっている。現代日本では、その政治的「血脈と地脈」の内部あるいは周辺そしてその延長としての情緒をもつ人間と、一般人とのあいだに「分断」が生じている。インターネットに現れる政治的な意見が極端になりがちなのはそのため(一般人の不参加)でもあろう。
長老支配
そしてその政治的「血脈と地脈とその延長としての情緒」は、最近よくいわれる忖度、あるいは企業の年功序列と終身雇用、大学や学会における各分野の長老の存在、企業における会長や名誉会長といった役職の肥大化などの現象と無縁ではない。長老支配である。いわゆる「和の文化」の調整装置として、日本社会に連綿とつづく属性の一つであるが、最近とみにその復活が感じられる。 今回の総裁選では、自民党における麻生、安倍両総理経験者、あるいは二階幹事長などの長老支配が露呈している。日本は、前大統領の罪が問われる韓国とは逆に、過去の政治権力者が力を残す文化なのだ。これは不思議なほど対照的である。 一度退いたはずの人物が隠然とした力をもち、キングメーカーとして君臨すれば、相対的に力の弱い総理は短期政権になりやすい。他国と比べて日本は短期政権がつづく傾向にあり、その時代に国力が低下しているように思える。長老的な人物は、枯淡の心境で大所高所からアドバイスすることを旨とすべきであって、ギラギラとして自己の権力に固執するのは国のためにならない。 平安の「院政」は王朝を滅ぼし、昭和の「元老」は戦争を止められなかった。