満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」
「あたかもジンギス汗」
ウルジンが己の人生とブリャートの将来を賭けることになる寺田は、大陸での対露対蒙工作に深く関わった軍人である。 寺田利光は、明治22(1889)年東京の生まれで、父親も陸軍軍人。陸軍中央幼年学校出の陸軍士官学校22期生である。砲兵少尉として任官し、陸軍砲工学校に進んでいる。一方で、幼年学校時代から学んでいたロシア語の才は誰もが認めるところだったらしく、大正14(1925)年には、新たに軍委託学生として東京外国語学校(現東京外大)に入学し、専修科蒙古部でモンゴル語の勉強に励んでいる。さらに卒業直後の昭和2年6月には、10カ月間の予定で内モンゴルに私費留学を果たす。ウルジンと初めて出会ったのはこのときだ。 寺田の名は、大正7年のシベリア出兵を契機にして「特務機関」の名が日本陸軍史上に初めて登場して間もなく、すでにその陣容のなかに見ることができる。 初編成時は、ウラジオストック、ハバロフスク、ハルピンなど9機関。反革命分子が多いウスリー・コサックの指導を任務とするハバロフスク機関(機関長・五味為吉大佐)に、投入されている。以降彼は、白系の戦線を追うようにシベリア・内モンゴル地域を転々として、やがて満州にまで白系人脈を抱え込んでいく。ウルジンもそのひとりである。 建国後に、興安北分省警備軍顧問に就いた寺田は、昭和12(1937)年7月16日にハイラルで病死している。陸軍砲兵大佐だった。 しかし、彼は死後、情報戦を巧みに戦った軍人の功績としてはおよそ似つかわしくない奇妙な足跡をホロンバイルに残した。その死を嘆き、ホロンバイル一帯のモンゴル人と白系ロシア人が申し合わせ、ハイラル公園に寺田の銅像を建てたのだ。建設費用はまったくの民意でまかなわれたという。
実にやさしい目をしてらした
寺田利邦さんは、寺田の三男である。東京都府中市の自宅に、家族にあてた手紙が残されていたが、膨大な手記などはさる事故のため喪失し、ウルジンに関する手がかりもすでになくなっていた。 利邦さん自身も2人の兄に続き陸士に学んだが、任官前に満州の航空士官学校で終戦を迎えている。数えで5つのときに別れた父・利光の記憶はほとんどない。ただ、利邦さんは一度だけウルジンに会ったことがあった。 寺田がまだホロンバイルに健在だった昭和10年ごろだ。ウルジンは公務で東京に入り、帝国ホテルで日本に残る寺田の子供たちに会って手みやげを渡している。利邦さんは、その土産をいまも大切に保管していた。モンゴル民族伝統の携帯用はしとナイフ、美しい織り柄の財布。財布のなかには、帝政ロシアのものと思われるきれいな紙幣などが数枚、時を止めたように丁寧に収まっていた。 「立派な体格でしたね。堂々としていて、ちっとも威圧的じゃなくて、実にやさしい目をしてらしてね、子供ながらああ立派な方だなって思いましたね。チョコレートをもらったのが本当にうれしくて」 少年の目に映ったウルジン像である。 *** ソ連赤軍と戦い、一族を率いて北の草原に逃れたウルジン。運命の扉を次に開いたのは大陸での対露対蒙工作に深く関わった軍人・寺田だった。第2回【満州国の真実 モンゴル人中将は謎多き「凌陞事件」でなぜ処罰されなかったのか【元日本人通訳の証言】】では、ウルジンと寺田の深い絆や、最後まで中将としての務めを捨てられなかった姿、その後の「名誉回復」までをお伝えする。
駒村吉重(こまむら・きちえ) 1968年長野県生まれ。地方新聞記者、建設現場作業員などいくつかの職を経て、1997年から1年半モンゴルに滞在。帰国後から取材・執筆活動に入る。月刊誌《新潮45》に作品を寄稿。2003年『ダッカに帰る日』(集英社)で第1回開高健ノンフィクション賞優秀賞を受賞。 デイリー新潮編集部
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