満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」
司馬遼太郎は「この数奇なモンゴル人」と
それほどに、この人物に関する遺留品はじめ、記述などのたぐいは少ない。ただ、歴史に葬られたそのモンゴル人将軍の影は、岡本さんが卒業した大阪外国語学校蒙古語部の後輩にあたる司馬遼太郎氏の『草原の記』(新潮文庫)のなかに、かすかにだが留められている。 話は昭和10年代の内モンゴル平原に及ぶ。建国への理想と失意が交錯する満州国の末期。言いがたいその気配を描写する素材として、司馬氏は、岡本さんが戦後にウルジンを偲んで認(したた)め、親しい友人らにだけ配った回顧録『一人の「ブリャートモンゴル人」と日本青年の出合い』をひもとく。 『草原の記』から引くと、ロシア革命後に中国領に入ったウルジンは、のち満州国軍中将になり興安軍官学校長まで任される要人となるが、終戦の年に「ソ連軍にとらえられ、食を絶って自死したという」。波乱の人生を歩んだウルジンを、「この数奇なモンゴル人」と司馬氏は言葉少なに語っている。 確かに、ウルジンの生涯には、想像を絶する時代の荒波が幾度も寄せている。辛亥革命を皮切りに、ロシア革命、モンゴルの共産化、満州国の出現。そのたび、モンゴル少数部族を率いる彼は、一族の存亡を賭けた岐路に立つ。かのノモンハン戦では、国境をへだてて同族のモンゴル人と壮絶な戦闘を繰り広げるに到るが、しかし満州国は数年後、あっけなく滅びた。
小学校教諭から職業軍人へ
その足どりから匂ってくるのは、満州国を舞台に活躍した多くの軍人、政治家、政商たちにつきまとうきな臭さではなく、どうにもならない行き詰まった時代の風だった。 ――ウルジンとはいかなる人物で、なにを思い満州国に没入していったのか。 現在もロシア連邦ブリャート共和国に存命の長女、サンディトマの簡単な覚え書きから拾うと、ウルジンは1889年にロシア領のシベリア・チタ市のボージル地区に生まれている。 一帯は、古くからブリャート・モンゴル族が暮らす土地だ。ブリャート・モンゴル族とは、もともと森林地帯で狩猟やトナカイの遊牧を営んでいたシベリアの少数部族である。外モンゴルの大勢を占めるハルハ族に対しマイノリティーではあるが、ロシア文化圏にあって西洋の風を常にうけ、モンゴル平原において進歩的立場の指導者を輩出してきた。 父親は、ロシア人の下で働く雇われ牧人だったという。わずかな金をしたため、かなり無理をしてウルジンを中学校に通わせた。 卒業後のウルジンは、少なくとも6年以上は小学校教諭をして、いきさつは不明だがチタの陸軍士官学校に進み、帝政ロシアの職業軍人になった。騎兵少尉であったという。 1917年(大正6年)、世界中を揺るがしたロシア十月革命が起きると、革命の火は、ウルジンが暮らす静かなバイカル湖畔の街へも延焼する。折しも、そのころ外モンゴルは独立闘争に揺れていた。