満州国の真実 元日本人通訳が見たモンゴル人中将の“数奇な運命”…「骨の髄まで反共の人」
ソ連赤軍から逃れ見渡す限りの草の原へ
「辿れば、転機はロシア革命でしょうな」 話が満州とウルジンの接点に及ぶと岡本さんはそう切り出した。 「セミョーノフと一緒に闘いはった。ソ連赤軍と」 革命勢力から逃れてきた白軍コサックの実力者アタマン・セミョーノフ中将のことである。ソ連を仮想敵国とする日本の特務機関の支援を受けて、赤軍に対し最後まで徹底抗戦を貫いた男だった。のちにモスクワ軍事法廷で、対ソ反乱罪などで絞首刑になるセミョーノフの軍がチタに入ったことで、一帯に帝政復活を望む白軍徒党が集まり、勢いブリャートの民族主義者も先鋭化していった。 「ブリャートはもともと熱心なラマ教徒が多かったですからな、そりゃ共産主義とは相いれませんわ。激しい戦いだったらしいですわ」 とは、岡本さんがのちにウルジンから聞いた話だ。 ブリャートの指導者として見いだされたウルジンは、セミョーノフ軍とともに戦いにのめり込んで行く。が、圧倒的な戦力差に、とうとうシベリアの地を捨て、一族を率いてシニヘイと呼ばれる現在の中国領・内モンゴル自治区の北の草原に逃れることになる。そこは北辺の小都市ハイラルから40キロばかりの地点。見渡す限りの草の原である。
日本の特務を帯びたある情報将校との出会い
戦後、岡本さんは、敬愛したウルジンの過去を独自にたどった。その調べによると、シニヘイに逃れたブリャート一族は、中国国民党と幾度も話し合いを重ね、3年後には正式に居住を許可されたらしい。 シベリアを去って間もなく、1924(大正13)年に、再びブリャートを震撼させるニュースがシニヘイの村に舞い込んだ。 そこより西側の草原に住むモンゴルの民が、世界で2番目の社会主義国家となるモンゴル人民共和国を打ち立てたのだ。事実上ソ連の衛星国であり、大陸進出の足場固めを急ぐ日本に対する防波堤としての役割は明白だった。さらに8年の後の1932(昭和7)年になると、今度は日本の対ソ防波堤として満州国が出現する。 ブリャートが右往左往する国境地帯の地図はめまぐるしく変わった。 満州国軍誌「鐵心」康徳5年2月号(昭和13年)に寄せた、現存するウルジンによる数少ない記述によると、満州国成立前夜のこんな不透明な情勢下で、彼は日本の特務を帯びたある情報将校と知り合う。その出会いが、後の人生を決定づけるのである。