【ヤバい総理大臣】 会議をサボッて飲酒!? 功績があるのに人気がない黒田清隆の「ざんねんエピソード」(明治の政治家)
10月、自民党総裁選に勝利した石破茂総理。改めてその経歴や人物像に注目が集まっているが、ここでは歴史上の総理大臣のエピソードをとりあげたい。第2代・内閣総理大臣の黒田清隆は、西郷隆盛に才を見出され数々の功績をあげたが、会議をサボタージュして「酒盛り」をしてしまうなどの問題行動も多かった。会議の出席要請をすると、なんとピストルを持ち出して追い返したという。どういうことなのだろうか? ■泥酔して大砲を発砲、民間人を「殺傷」 内閣総理大臣(第2代)・黒田清隆。数々の酒の過ちとスキャンダルで知られる黒田ですが、素面のときは優秀で、開明的でさえありました。明治4年(1871年)、アメリカ留学に出発した津田梅子など、多くの女性たちの海外留学に尽力した経歴なども黒田にはあります。 黒田は貧しい薩摩藩士の家柄に生まれましたが、幼少期から頭がよく、藩命を受けて江戸に留学し、西洋から輸入されたばかりの近代的砲術技術を身につけています。エリート軍人だった若き黒田に出会った西郷隆盛は、彼に特別な才を見出し、「砲術の人となるなかれ、天下の士となるべし」と激賞しました。 一般的に「軍人ではなく、政治家をめざしなさい」と理解される言葉ですが、後年(明治9年・1876年)、北海道開拓長官だった黒田は泥酔し、軍艦の大砲を発砲して民家を吹き飛ばす殺人事件を起こしています。 軍事演習の途中だったので、殺人罪は免責されたようですが……西郷隆盛も、酒が好きすぎる黒田に「武器を与えてはいけない」とやんわり警告していたのかもしれませんね。 ■会議をサボタージュして「自宅で酒盛り」 出席要請も怒鳴って追い返す しかし、「天下の士」――つまり政治家になってからも黒田には酒がらみの問題行動が目立ちました。明治15年(1882年)、内閣顧問に就任した黒田ですが、気に入らないことがあると会議をサボって別室で酒盛りをしたり、帰宅したりしているんですね。 当時の明治新政府における最高職をつとめていたのは、太政大臣・三条実美でした。三条からの「出席要請」を井上馨が伝えに行くと、自宅で酒盛り中の黒田は井上馨に酒を進めたあげく、ピストルを持ち出して「帰れ!」と激昂。別の使者も怒鳴って追い返すなど、パワハラ・アルハラの権化としての振る舞いを見せています。 もっと情けないのは、酔いから醒めると泥酔時の行いが恥ずかしくてたまらなくなり、三条に謝罪しにいったことでしょうか。三条はそんな黒田の人柄を評して「変態無常(=態度がコロコロ替わる)、実に危険の事」と言っています。 ■不平等条約の改正に失敗したので、ヤケ酒して井上馨の家に突入 これらが黒田をよく思っていない伊藤博文側の証言であるのには注意が必要です。ただ、現在ならば、「妻殺害疑惑」につづき、会議にまともに出席すらせず、酒を飲んでいる黒田の政治家生命など確実に終わっているはずでしょう。 一方、明治時代の日本は、男性――それも権力のあるおじさんの問題行動にはきわめてやさしかったので、明治21年(1888年)、黒田は伊藤博文の後をついで第2代・内閣総理大臣に就任。 しかし結局、幕末期に日本と外国が結んだ不平等条約の改正に失敗して、2年と保たずに内閣を瓦解させています。つらいと酒に逃げる黒田はこのときも泥酔し、井上馨の家に突入して、彼が留守なのに(!)召使い相手に「国賊・井上を誅する!」と叫んで暴れまわる醜態を見せたのでした。 本来なら、井上の「ボス」である伊藤博文の自宅にカチコミ(突入)すべき案件だと思うのですが、泥酔しても小心者の黒田は、幕末の一時期に「人斬り」だった伊藤を恐れていたと囁かれています。 「男らしい」のは当たり前、「英雄」とか「豪傑」であることさえ求められた明治期の政治家として振る舞うため、優秀でも繊細すぎる内面を持っていたと思われる黒田黒田には「酔わねばやっていられない」ほどのつらさがあったのかもしれませんが……もはや非常に残念な御仁というしかありません。 画像出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
堀江宏樹