総裁選のカギ握る? 自民党の「派閥」とは 功罪と栄枯盛衰
総裁育成やポスト配分…派閥の功罪
全盛期の派閥は次のような機能を有していた。第1に、総裁育成・選出機能である。総裁選で勝利するためには党内の多数の支持が必要であるため、派閥の領袖(リーダー)は総理・総裁の座を目指して自己の勢力を拡大しようとしてきた。選挙に際しては派閥が結束して行動し、領袖を総裁に押し上げようとした。そのため、総裁選の結果は多くの場合、派閥の間の合従連衡で決まっていた。派閥が総裁候補育成と総裁選出の母体として基幹的な役割を果たしていたのである。 第2は、役職配分機能である。政府のポスト(大臣など)、国会のポスト(委員長など)、党のポスト(部会長など)は派閥に応じて割り当てられていた。こうした慣行は派閥均衡人事と呼ばれていた。 第3は資金配分機能である。盆暮れに「モチ代」「氷代」と呼ばれる金銭が配られたように、派閥の幹部は所属議員に資金を配分していた。そのため幹部には資金獲得能力が必要とされた。 そのほかにも派閥は、公認獲得、人材育成、陳情処理といった点で大きな役割を果たしてきた。新人候補などの場合、有力派閥に所属していると選挙での公認を得やすかった。派閥の中で先輩議員が後輩を指導し、議員同士が切磋琢磨することを通じて政治家としてのトレーニングがなされた。また派閥は、所属議員が支持者からの陳情を有力者につないで処理してもらう役割も果たした(かつての田中派はどのような陳情にでも対応できるとして「総合病院」と呼ばれた)。 一方で、派閥政治には批判もつきまとった。密室での談合で物事が決まっているとの批判や、カネの力で政治が動かされているといういわゆる金権政治との批判である。
選挙制度改革と派閥の衰退
こうした派閥のあり方に転機をもたらしたのが、1990年代半ばに行われた政治改革である。1980年代末に表面化したリクルート事件(リクルート社をめぐる汚職事件)をきっかけとして、政治とカネの関係を断ち切り、選挙における国民の選択で政権が決まるような政治に変えていこうという政治改革の動きが高まってきた。 政治改革は1980年代末から90年代初頭にかけての日本政治の最大の焦点であった。羽田孜、小沢一郎らの離党による自民党の分裂、野党への転落(55年体制の崩壊)、非自民連立の細川政権の誕生を経て、1994(平成6)年に選挙制度改革と政治資金制度改革を柱とする政治改革4法が成立した。選挙制度改革では、衆議院を中選挙区制から小選挙区比例代表並立制に変更した。上記のような党内競争をなくし、政党同士が政策を軸に争う政治、政権交代が可能な政治をつくり出すのが目的である。政治資金制度改革は政治資金の透明化や政党助成制度の導入を目指した。 この政治改革の効果により、派閥のあり方は大きく変わった。第1に、上記の通り派閥の存在意義の大きなものは中選挙区での党内競争にあったが、小選挙区制により党内競争がなくなったため、その存在意義は大きく減じられた。 第2に、中選挙区制では党の公認がなくても当選する可能性は十分にあった一方(無所属で当選した者を事後的に入党させる「追加公認」という仕組みも盛んであった)、小選挙区制や比例代表制では公認が得られないと当選が難しく、政治家にとっては致命的になる。そのため、公認の権限を有する党執行部、特に総裁や幹事長の影響力が格段に強くなった。ポストの配分権も執行部に集中するようになった。 第3に、小選挙区制では政党と政党の争いになるため、選挙戦では党首のイメージが格段に重要となる。そのため自民党の各議員も「党の顔」となるようなイメージのよい総裁を求めるようになった。国民的人気に欠ける総裁を担いでいては、自分の選挙に不利になってしまうからである。すなわち、従来のような派閥の支持だけではなく、国民的人気の有無が総裁選出に当たっての重要な条件となった。 加えて、政治資金制度改革により政治資金の透明化が図られたことにより、派閥内での不透明な資金の授受が困難になった。このように、総裁選出、役職配分、資金配分といった諸機能が取り上げられることにより、派閥の力は大きく削がれた。