「竹下派」から「福田派」支配へ 首相で振り返る平成政治 坂東太郎のよく分かる時事用語
「汗は自分でかきましょう。手柄は人に渡しましょう」がモットーの竹下登内閣の時にスタートした「平成」は、「森羅万象すべて担当している」と自信満々の安倍晋三首相の在任時に幕を閉じます。平成の30年間に誕生した17人の宰相の変遷を通して、日本政治の変化を振り返れたらと思います。 【写真】平成の日本政治とは?(1)経済大国に導いた「55年体制」の真実
前史:「三角大福中」の時代
1972(昭和47)年の田中角栄首相誕生から三木武夫、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘を加えた5氏がそれぞれ自民党内の派閥の領袖(親分)に君臨して激しい「戦国史」(伊藤昌哉氏の著書名より)を繰り広げます。1955(昭和30)年の結党からほぼ単独で与党に君臨していた自民党は、野党より身内との戦いの方が激越でした。 そもそも自民党は、吉田茂氏が率いていた自由党(保守合同時の総裁は緒方竹虎氏)と鳩山一郎氏の日本民主党が合流(保守合同)して生まれた政党です。「三角大福中」のうち、自由党系が角栄(旧佐藤栄作派)と大平(旧池田勇人派)の両氏、日本民主党系が福田、中曽根の両氏です。三木氏は日本民主党系ながら戦後、国民協同党という政党党首も務めた合流組で自民党内では時に独自路線を選択します。このうち角栄氏と福田氏の角逐は特に凄まじく「角福戦争」と呼ばれました。 首相に上り詰めた田中氏は、月刊誌が報じた金脈問題などを追及され、1974(昭和49)年に退陣。その後、ロッキード事件が勃発して逮捕され、金権政治との批判を集めた後も、田中派は以後の政権に影響を及ぼし続けます(田中支配)。ところが1985(昭和60)年、田中派のホープだった竹下氏がクーデターに近い形で派内に創政会を結成。87年には経世会(竹下派)を旗揚げし、11月に首相の座を射止めた際には「長期政権間違いなし」と目されていたのです。その間に昭和天皇が崩御し、1989年1月に平成の世が始まりました。「平成おじさん」で知られる小渕恵三官房長官は竹下派に属します。 しかし竹下政権は消費税導入(税率3%)やリクルート事件の発覚などで急速に支持を失い、平成元年6月に無念の退陣に至りました。1年7か月足らずの政権でした。