箱根駅伝の「伏兵ランナー列伝」 マネージャー兼任の選手が好走、まさかの抜擢が奏功した例も
箱根駅伝では、注目のトップランナーが期待どおり快走し、ヒーローになる一方で、ほとんどノーマークだった“伏兵ランナー”が予想外に素晴らしい走りを見せ、チームを勢いづけることもある。 【ランキング】過去を振り返る!箱根駅伝エントリー選手の出身高校ランキング(全2ページ) 主務(マネージャー)と選手を両立させ、最初で最後の箱根で一世一代の走りを披露したのが、第74回大会(1998年)の中央大・石黒睦だ。 中学時代はサッカー少年で、国学院久我山入学後に陸上を始めた石黒は、高3のときにインターハイ予選の南関東大会に出場するまでに成長した。 そして、「箱根を走りたい」と夢見て中大に入学したが、ケガ続きで思うような練習ができず、記録も伸びない。3年夏にマネージャーへの転身を勧められ、一度は選手を断念した。 だが、箱根を走る夢をあきらめることができず、ケガが治ると、マネージャーの仕事を終えてから、一人で黙々と練習。大志田秀次コーチ(前東京国際大監督)も「この1年間で石黒が一番練習した」と認めるほどの頑張りを見せた。 そんな努力が実を結び、箱根に出場しても十分通用する1万メートル29分37秒2の自己ベストをマーク。チームメートたちの間でも「石黒を選手として使ってほしい」という空気が芽生えはじめた。3年生のサブマネージャー・平石太一郎も、石黒の負担を少しでも軽減しようと、進んで仕事をカバーしてくれた。 周囲の支えもあり、中大史上初の主務兼選手として8区に出場した石黒は、区間2位の1時間07分29秒で総合3位をキープし、ガッツポーズしながら鶴見中継所に飛び込んできた。これには9区でタスキを受け取った同じ4年生の小林渉も「感動して鳥肌が立った」という。 「最後に箱根を走れて良かった」と喜びを噛みしめた石黒は「平石の協力があってこそ、今日の走りがあると思います。マネージャーの仕事は大変ですが、チーム全体を見渡せたことが選手としてプラスになりました」と感謝の言葉で締めくくった。 急きょ代役に指名された山下りで予想以上の快走を見せて、チームのシード権獲得に貢献したのが、第81回大会(2005年)の法政大・松垣省吾だ。