「どれだけ人の思い出に残っていくか」――秋元康と竹内まりやが語るJ-POP、アイドル、創作人生
竹内まりやのポップスと、山下達郎
二人が青春を過ごした1970年代、若者の憧れは海外だった。洋画や洋楽が次々に紹介され、ライフスタイルやカルチャーに影響を与えた。 秋元「僕ね、対談するにあたって、リードに使っていただけるようなワードを考えなきゃいけないと思って、考えてきたんですよ。ほら、放送作家だからさ」 竹内「それは性(さが)だね(笑)」 秋元「でね、僕が思ったのは、『竹内まりやは音楽界の戸田奈津子である』。どう?」 竹内「あははは。洋画の字幕翻訳の方ですよね」 秋元「僕らは、洋画はなんでも戸田さんの字幕で見たわけじゃない? それと同じで、まりやさんの中にある洋楽がメロディーになり、そこに日本語の歌詞が乗るから、僕たちは理解できていたわけで」 竹内「その捉え方は面白いな。私自身はそんな意識はなく、根っこにあるものは洋楽だけど、そこにグループサウンズがあったり、歌謡曲もあったり。いろんなものが組み合わさって、自分のポップスができあがってると思っているんです」 秋元「僕なんかは自分で書けない分、プロコル・ハルムの『青い影』をやりたいとか、シルヴィ・ヴァルタンの『アイドルを探せ』のイメージでといった言い方をしないとわかってもらえないので」 竹内「わかる、共通言語が洋楽ベースということね」 秋元「そう。自分の中を通り過ぎていったもので伝えるしかない。その点、まりやさんは自分で書けるし、達郎さんという書庫みたいな人がいるから」 竹内「自分のやりたい音楽を、山下達郎というアレンジャー、プロデューサーの力を借りて具現化しているから、ぜいたくですよね。彼は私よりずっとうまく歌える上に、ギターもピアノも弾いて、ストリングスの譜面を書いて、一人で多重コーラスを入れて、なおかつトータルのアレンジができる人なんて、他にはどこにもいない」
秋元「達郎さんはお元気ですか?」 竹内「71歳で元気に全国を回っています。そういえば、石橋くんと4人で、両国のちゃんこ鍋屋に行きましたよね。その後カラオケ屋に流れて。あの時の達郎、面白かったでしょ?」 秋元「カラオケなのにずっと音を調整してて(笑)。つまみを回したり、スピーカーの向きを変えたり。達郎さんのイメージは昔から変わらない。下町の頑固なおやじなんですよ」 竹内「変わらない、変わらない」 秋元「音楽に対して、誰よりも詳しくて厳しい。元祖ヲタクだよね。達郎さん、大リスペクトだから、ずっと頑固おやじでいてほしい。4、5年前に、AIで美空ひばりさんを再現するという番組があって、頼まれて曲を書いたんです。そうしたら、達郎さんがラジオで『死者への冒涜だ』と言って、大騒ぎになって。みんなが心配してくれたんだけど、いやいや、達郎さんらしいじゃないって」