「どれだけ人の思い出に残っていくか」――秋元康と竹内まりやが語るJ-POP、アイドル、創作人生
二人が出会った頃、最先端の音楽カルチャーを届けようというテレビの企画が立ち上がった。司会に加藤和彦と竹内まりや、構成に秋元康が起用される。1980年10月にスタートした音楽番組「アップルハウス」だ。若者に支持されたが、大衆的な人気は得られず、半年で終了。1981年の4月、竹内はシングル「イチゴの誘惑」をリリース。イベントにテレビ出演にと、アイドル的な売り出し方で多忙を極めた。 秋元「あの頃が一番悩んでたんじゃない?」 竹内「『イチゴの誘惑』の頃はもう絶対休業しようと決めながらやってた」 秋元「今でも覚えているんだけど、赤プリ(赤坂プリンスホテル)かどこかでイベントをやってたんですよ」 竹内「そうそう。白いエプロンをかけて、イチゴのショートケーキにこうやってやるような(生クリームを搾るようなジェスチャー)イベントをしたんです」 秋元「その時に、『これは私じゃない』っていう顔をされたんですよ。まりやさん、悩んでいるんだろうなって思った」 竹内「楽曲はいいのに、宣伝するためにやってることが、ザ・芸能活動だってことが疑問だったんですね。『ピーチパイ』がヒットしたので、『春はまりやのフルーツポップス!』みたいなキャッチフレーズで。芸能人運動会も真剣にやるから、走り高跳びで準決勝まで行ったりして。でもオンエアを見ると、何か違うぞ、と(笑)」 秋元「すごいな(笑)。でもそういう時代だったし、レコード会社も売り出し方がわからなかったんだと思う。歌謡曲とニューミュージックの端境期だったから」 竹内「『ピーチパイ』の後に、担当ディレクターから『次は(作曲家の)筒美京平先生に頼もうか』と言われたんです。京平先生に曲をいただくと、ヒットが確約されるようなもの。でも完全に芸能界の人になって自分のアイデンティティーを失うと思って、お断りしたんです。もしあの時、先生の曲を歌ってそれが1位をとっていたりしたら、自分で作曲をしようという意欲はなくなっていたかもしれない。歌謡界ではそれくらい大きな存在でしたから。個人的には仲良しでしたけど」