「どれだけ人の思い出に残っていくか」――秋元康と竹内まりやが語るJ-POP、アイドル、創作人生
シンガー・ソングライターとしてヒットソングを世に送り出す竹内まりや(69)がデビュー45周年を迎えた。1978年のデビューからわずか3年で休業を宣言し、27歳の時にミュージシャンの山下達郎と結婚。以来、家庭生活を優先しながら、音楽活動を行うという独自のライフスタイルを築いてきた。休業宣言前の竹内をよく知るのが、作詞家でプロデューサーの秋元康(66)だ。放送作家として、竹内が出演する番組の構成を担当した。その後は、それぞれ日本のポップスの一翼を担ってきたが、今も気の置けない関係だという。歌い継がれる名曲はどのように生まれるのか。昭和と令和のアイドルの違いは。思い出を交えて、3時間たっぷりと語り合った。(取材・文:長瀬千雅/撮影:能美潤一郎/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部/文中敬称略)
44年前の出会い アイドル的な活動で多忙を極めて
出会いは44年前にさかのぼる。竹内の4枚目のシングル「不思議なピーチパイ」が大ヒットした1980年。竹内は25歳、秋元は22歳だった。 竹内「文化放送で私のラジオの構成をしてくださってたんですよね。『こんばんは、竹内まりやです』から始まる手書きの台本を覚えています」 秋元「まりやさんのマネージャーをされていた方から、『コンサートの構成案を出してくれないか』と頼まれて」 竹内「河口湖でライブのリハーサル合宿をしていた時に、打ち合わせに来てくれましたね」 秋元「終わって帰ろうとしたら、まりやさんが『私も帰る』と言い出したんですよ」 竹内「達郎とつき合い始めたばかりの頃で、早く帰りたいなと思ってて(笑)。『車に乗っけてってもらえますか』って頼んだんですよね」 秋元「東京までドライブして、確かまりやさん、麻布十番で降りたの。達郎さんがあのあたりに住んでたんだと思う」 竹内「よく覚えてますね(笑)。あの頃アッキー(秋元さん)は構成作家をしていたけれど、『将来的に何がやりたいの?』と聞いたら、一つの大仕事を成し遂げられる人間になりたいって」 秋元「そんなこと言いました? 恥ずかしい。たぶん、自分はこれをやっています、と言えるものがほしかったんですよね」 竹内「(美空ひばりの)『川の流れのように』を作詞されてヒットした時、ああ、夢を成し遂げたんだな、と思ったんですよ」