藤井 風、Reolらのサポートでも活躍 ドラマー 上原俊亮、出会いを通して拓けた自由なプレイスタイル
【連載:個として輝くサポートミュージシャン】上原俊亮 Anly、竹内アンナ、和久井沙良、近年ではReol、和ぬか、Anonymouzなど、数多くのアーティストのレコーディングやライブに参加しているドラマーの上原俊亮。10歳のときに地元・沖縄のりんけんバンドのメンバーとして活動を始め、バークリー音楽大学への留学を経て、2019年に上京。その前後に出会ったベーシスト 森光奏太とのリズム隊ユニット Spice rhythm、dawgssでの活動と並行して、2022年には藤井 風の『LOVE ALL SERVE ALL』のレコーディング、その後のツアーへの参加によりさらなる注目を集めた。フュージョンをルーツに持ちつつ、同期を用いたライブにも対応するオールラウンドなプレイヤーとしての立ち位置は非常に現代的。昨年末にdawgssからの脱退を発表し、現在は再びいちドラマーとして精力的に活動を続ける上原に、これまでの歩みを語ってもらった。(金子厚武) 【撮り下ろし写真】藤井 風やReolのサポートで活躍する若手ドラマー 上原俊亮 りんけんバンドで活動スタート 影響を受けたドラマーも ――上原さんは3歳からドラムを始めて、10歳からりんけんバンドのメンバーとして活動されていたそうですね。 上原俊亮(以下、上原):僕の父親がりんけんバンドのベーシストだったこともあり、10歳でりんけんバンドに入ることになって、そこから高校卒業くらいまでの約8年間お世話になりました。父親はもともとドラマーになりたかったらしいんですけど、ベーシストになって、僕が生まれて、小さい頃に父親の現場についていくと、僕がドラムに興味を持ってるように見えたらしくて。で、僕が3歳ぐらいのときにローランドが出してるVドラムを父親が買ってきて、子供ながらに楽しいと思ったのが始まりでしたね。 ――おもちゃで遊ぶみたいな感じで始まって、でも気づいたらハマっていたと。 上原:最初は本当に遊びの延長だったと思うんですけど、だんだん父親の……誘導じゃないですけど(笑)、「この曲かっこいいよね。ちょっと叩いてみてよ」みたいに言われて、父親が持ってくる曲の耳コピみたいなことを延々やってたんです。父親はフュージョンが好きで、よくカシオペアの曲を聴いてたんですけど、カシオペアのドラムの神保(彰)さんの教則DVDを父親と一緒に観たりして、どんどんドラムにのめり込んでいって……父の誘導にまんまとやられました(笑)。 ――フュージョンがルーツというのは近年、上原さんが関わっているアーティストの色からしても納得なんですけど、りんけんバンドはまたちょっと色が違いますよね。 上原:りんけんバンドは全然フュージョンじゃなくて、いわゆる琉球音楽がベースにあり、そこにドラム、ベース、キーボードみたいな楽器を融合させたポップミュージックなんですけど、でもリーダーの(照屋)林賢さんがすごく自由にやらせてくれたんです。僕自身フュージョンが好きだったので、当時は歌のこととかは全然考えてなくて、ちょっとでも隙間があったら「ここに面白いプレイを入れてやろう」みたいな考えだったんですよね。たまに昔の音源を聴くと「これ普通は怒られるぞ」と思うんですけど、林賢さんがすごく寛大で、本当に好き勝手やらせてもらってました。 ――ひとつのジャンルに縛られるのではなく、自由にドラムを叩くことの楽しさを教えてもらったんですね。 上原:そうですね。それが結構今にも結びついてるなと思って。もちろん得意・不得意はあるんですけど、僕はいろんな音楽が好きなんですよ。ポップスもそうだし、トラディショナルとまではいかないですけど、ジャズな感じのサウンドも好きだし、R&B、ファンク、ラテン、ブラジリアンミュージックとかも好きで、いろんなジャンルに耳を傾けようと思えたのは、周りの人たちのサポートがあったからだと思います。 ――小さい頃はお父さんの勧めで相当クリック練をやっていたとか。 上原:やってました。当時は父親がずっとそばで目を光らせる中で練習をしてたんですけど、「クリックと仲良くなるに越したことはない。先を見据えてこういう練習もしておいた方がいい」みたいに言われて、クリックに合わせながら練習して。最初は「なんだこれは?」という感じだったけど、あれをやってたから今クリックに合わせるのがそんなに苦じゃないっていうのはあって。今の現場は同期があって、生のバンドがいて、ボーカリストがいて……みたいな感じが普通で、クリックに合わせすぎると逆にアンサンブルの鳴りが不自然になったり、クリックとアンサンブルのいいところにずっといるのはめちゃくちゃ難しいことなんですけど、小さい頃から父親に口酸っぱく言われてたおかげで、何となくそれがわかるようになったのかなって思いますね。 ――りんけんバンドの活動の一方で、上原さん個人としてはどういう音楽にハマって、どういうドラマーから影響を受けましたか? 上原:大体、父親が持ってくる盤を聴いてたんですけど、あるときジョン・スコフィールドのアルバムを持ってきて。デニス・チェンバースがドラムを叩いてて、それが僕の中でめちゃくちゃ衝撃で。「このグルーヴかっこいいな」みたいなことを思ったのはデニス・チェンバースがきっかけで、『Blue Matter』(1987年)や『Loud Jazz』(1988年)をよく聴いてました。あとは父親がパット・メセニーが大好きで、『Letter from Home』(Pat Metheny Group/1989年)もよく聴きましたね。すごく透き通ったサウンドの音楽だなと思って、ポール・ワーティコとアントニオ・サンチェスが叩いてる盤をよく聴いてたんですけど、流れるようなドラミングに「こういう音楽もあるんだな」みたいなことを思いました。あとは上原ひろみさんのアルバムもよく聴いてて、そこからピアニストが主軸となった音楽にもハマって、がっつり変拍子の曲だったり、超絶技巧的な細かいユニゾンの曲にすごく衝撃を受けて。今やってることだと和久井沙良ちゃんの音楽性に近いというか、ピアノ主体でジャズっぽいと思いきや、ちょっとプログレっぽくなったりとか。そういうのは上原ひろみさんをはじめ、ピアニストのいるバンドやグループを聴いてきたから、わりとついていけてるのかなと思います。 ――最初はお父さんの影響が大きかったと思いますが、ある程度ドラマーとしての自我も芽生えた上で、好きになったドラマーというといかがですか? 上原:よく名前を挙げてるんですけど、ネイト・スミスはすごくかっこいいなと思います。音を聴いただけでこれは自分の演奏だとわかってもらえるような楽器奏者になりたくて、ネイト・スミスはそれが体現できてると思うんです。数小節聴いて、「ネイト・スミスっぽいな」と思って、後で調べたらやっぱりそうだったことが多くて、レコーディングに参加してる誰かのプロジェクトでもやっぱりわかるから、それは一つの目標というか、自分もそうありたいなと思います。あとはスティーヴィー・ワンダーのバンドで叩いてるスタンリー・ランドルフとか、デヴォン・テイラーとか、世界でトップのドラマーたちの演奏はやっぱりすごく勉強にもなるし、よくチェックしてますね。 バークリー留学から下北沢rpmまで……出会いが広がった場所 ――りんけんバンドを卒業した後は、一時期バークリー音楽大学に留学されていたそうですね。 上原:僕が中学生のときに、今ボストンを拠点にVideo Game Orchestraというプロジェクトをやっている仲間将太さんと知り合って。その方も沖縄出身で、バークリーの卒業生なんですけど、りんけんバンドのライブが終わって話すタイミングがあったときに、「バークリー興味ないの?」みたいなことを言われて。調べてみたら卒業生として著名なミュージシャンの名前が並んでいて、急に興味が湧いて、そこから将太さんにいろいろバックアップをしてもらって、入学試験を受けた感じでした。 ――誰のどんな授業が印象に残っていますか? 上原:キム・プレインフィールドという先生がいて、もう亡くなってしまったんですけど、彼の授業をずっと取ってました。もちろんテクニックもすごいんですけど、オールラウンドなドラマーであることの楽しさを彼が教えてくれたなっていう気がして。いろんな楽曲を持ってきてくれて、その曲に対するアプローチの仕方を考えたときに、自分と彼が思ってるアプローチが全然違っても、それを否定するのではなく、「そっちの方がいいね」みたいなことも素直に言ってくれたり、それもすごく自分の自信に繋がって、本当にいい先生でしたね。先生としてもそうですけど、人としてもすごくいい巡り合いだなと思って、ずっと彼の授業をメインに他の授業も組んでました。 ――りんけんバンド時代の林賢さんもそうですけど、自由に演奏することの楽しさを教えてくれた人がいて、それが今の上原さんのオールラウンドなプレイヤーとしての礎になっているんでしょうね。帰国後は2019年に上京されていますが、のちにSpice rhythm、dawgssとしてともに活動するベーシスト 森光奏太さんとはいつ頃出会っているのでしょうか? 上原:奏ちゃんと知り合ったのは上京する直前ぐらいで、きっかけはシンガーソングライターのAnlyでした。Anlyも沖縄の出身で、まだ沖縄にいたときに彼女のツアーのサポートで声をかけていただいて。僕はそのツアーの翌年に上京するんですけど、そのタイミングでAnlyと奏ちゃんが東京で出会ってて、僕が東京に物件の内覧をしに来てるタイミングで、「すごいベーシストがいるんだけど、3人でスタジオ入らない?」みたいな感じで連絡があって、そこで初めて会ったんです。で、上京してからも普通に遊びに行ったり、セッションライブで一緒になったりで、どんどん演奏する機会が増えていって。ただ上京して1年ぐらいでコロナ禍になっちゃったから、1回本当にまっさらになっちゃったんですけど、その分時間はたっぷりあったので、「スタジオに入って何か一緒にやる?」という感じで動画をInstagramに定期的にアップしていくようになり、「こんな感じでオリジナルの曲も出せたらいいよね」みたいな話になって、Spice rhythmという名義で曲を世の中に出し始める、というな流れでした。 ――コロナ禍前は下北沢のrpmなどでよくセッションに参加していたそうですね。 上原:rpm(の存在)はすごく大きかったですね。ジャムセッションができる場所は他にもちょこちょこありますけど、たまたま僕の住んでた家からrpmが近かったんですよ。それでよく遊びに行ってて、その時期のrpmは今第一線で活躍してるサポートミュージシャンの人たちが、結構ホストをやってたんです。「この人もやるんだ」みたいな日がたくさんあって、しかも普通のライブよりも安い価格で、なんなら一緒に音も出せるかもしれないし、話せるかもしれない、すごい環境だなと思って、しょっちゅう遊びに行ってました。そうしたら、お店のマスターにも気に入っていただいて、「沖縄から来た上原っちゅう上手いドラマーがおるから」みたいに僕の噂を広めてくれて、僕が仕事で初めて行く現場でも、「マスターが言ってた人ですよね」みたいな感じで、最初から馴染みやすい雰囲気ができてたりして。最初は恥ずかしさもあって、「いや、そんなに言わないでくださいよ」って感じだったんですけど、今となってはすごく感謝しています。 ――和久井沙良さんとかともその頃に出会ってると思うんですけど、ドラマーでいうとどんな出会いがありましたか? 上原:最初にrpmに遊びに行ったときに、今CASIOPEA-P4でドラムを叩いてる今井(義頼)さんがいて、僕がシットインしたところを動画で撮って、SNSに上げてくれたんです。それが少し話題になって、その後にまた別のドラマーの人が僕がrpmでシットインしたときの動画を上げて、それが結構バズったんですよ。僕はそのときちょうどバイトをしてて、終わってスマホを見たらすごい量の通知が溜まってて、一瞬「壊れたかな?」と思ったんですけど、開いたらその投稿がすごい伸びてて。そういうこともあって、やっぱりrpmはいいなと思って、第一線でやってる人たちと一緒に音を出せる環境はすごくありがたいし、みんなざっくばらんにいろんな話をしてくれるし、rpmで会った人たちからはめちゃくちゃ刺激をもらえました。松下マサナオさんもrpmで初めて会って、ドラム2台並べてジャムセッションしたり、いろいろ思い出がありますね。