巨匠ジウジアーロの渾身作に世界が騒然!! 117クーペ市販化へのいすゞの意地
反響の大きさにいすゞがビックリ
そしていすゞはジュネーブショーの翌年に開催された東京モーターショー1967にギアの名前を除き、イタリア語表記のスポルトを英語表記に変更して『いすゞ117スポーツ』として日本で初公開した。 筆者は1966年生まれだから、117スポーツが公開された時はタイムリーには知らないが、いろいろな文献を漁ったところ、初代トヨタセンチュリー、日産ブルーバード510などと並び117スポーツの注目度はかなり高かったようだ。 117クーペは日本専用モデルとして開発されていたため、欧州で評価されても日本で話題にならなければそのままお蔵入りもあったのかもしれない。しかし日本でも大反響。肝心の東京モーターショーでの反響の大きさが市販化の決定打となったという。
市販化への大きな壁
ショーモデルで絶賛されたデザインがいざ市販されてみると「なぜこうなった?」と首をかしげるようなケースは少なくない。デザインを手直しした結果、印象が大きく変わる、というのも珍しくない。ショーモデルはワンオフで生産性など考慮されていない。煌びやかに目立てばいいのだ。それに対し量産車はそうはいかない。 美しく世界的に評価された117スポーツのデザインだが、当時のいすゞにはそれをそのまま市販できるだけの生産設備も生産技術もなかった。どれだけ美しいデザインのクルマでも量産車として生産できなければ単なる作品、芸術品で終わってしまう。ジウジアーロも納得したうえで、生産性を考えてデザインが手直しされたというがそれでも量産化は難しいという結論だったという。
イタリアから職人を招聘
しかし、ブランドイメージを確立するために高級パーソナルクーペを切望していたいすゞの市販化に向けての執念は凄かった。いすゞとしては117スポルトの量産化のために新たに設備投資するというのは財政的に難しかった。ではどうしたか?いすゞはライン生産ではなく、ハンドメイドで外装を手掛けることに決定したのだ。117スポーツを量産するためにイタリアから多数の職人を呼び寄せた。この英断には今さらながら大拍手だろう。 ハンドメイドというと、金槌のような道具を使って鉄板をカンカンカンと叩いてボディを成型する、というマンガに出てきそうなものを想像するかもしれないが117の場合は、いすゞの工場のプレス機によりある程度までボディを製作し、職人が手作業で仕上げるというものだったらしい。しかし1960年代後半とは言え、日本メーカーでそんなクルマ作りをしているメーカーなど皆無だった。ハンドメイドゆえ数が作れず、初期では1カ月に作れるのは50台程度だったようだ。