日馬富士暴行問題で考える ── 相撲界にみえる日本文化の「排除」の力学
人生には霹靂がある
ある文化には、異文化を受容する力と排除する力がはたらくものだ。 これまでに述べたように、「ユーラシアの帯」(先にこのサイトの「『親密』な握手、ゴルフ、食事、会談……日米同盟の文化的な構図」で詳述した)の東の果ての海を隔てた列島には、「家社会」としての情緒的一体感があり、表面的にはともかく、深いところでは独特の免疫力と排除力がはたらく。そしてネット社会における「個室の大衆」には、自己の帰属性に敏感な、新しいかたちの「集団志向」があり、この問題についても、さまざまに意見が発信されている。 日本文化はすでに、一人の強力なモンゴル人横綱を排除した。 今回どのような排除の力学がはたらくのか。 処分については、公的機関の事実解明と、協会の客観的な判断に委ねるほかない。周りがいろいろいうのは控えるべきだろう。 また筆者は、文化論者として「日本人とは何か」という問いに対し、国籍でも血筋でもなく、日本文化を深く理解する者(言語や行為を含め)という立場を取っている。その意味で、友綱親方はもちろん、白鵬や日馬富士や鶴竜も、十分に日本人だと考えてきた。それだけに今回の事件はショックであった。 まさに青天の霹靂である。 「酒は怖い」と感じる。 しかしこれは、誰にでも起こりうる、人生そのものの怖さではないか。 人生には霹靂というものがあるのだ。