日馬富士暴行問題で考える ── 相撲界にみえる日本文化の「排除」の力学
協会内の文化変革者
もう一つ複雑な要素として、協会内における貴乃花親方の特異性が話題になっていることがある。 相撲の実績としては申し分なく、平成の大横綱と呼ばれ、兄も横綱、父は人気大関、伯父は不世出の名横綱で協会理事長という、まさに相撲界のクラウンプリンスであり、国民的人気を集める日本社会の輝ける星であった。しかし女優宮沢りえとの婚約が破談になって以来、次第に内的な陰りが現れ、整体師の強い影響、兄弟の不仲、家族関係の崩壊など、問題が次々と報道されて、それまでの理想像と露呈した現実とのギャップが大きかった。 親方となってからも異端児ぶりが目立ち、理事長選などを巡って現執行部と対立しているという。とはいえ、異端児が悪いわけではない。協会には改善すべき点も多く、変革には必要な存在である。うまくいけば古い体質の改革者となり、いかなければ単なる偏屈者となる。これは評価と予想が分かれるところだろう。 またすでに両親のない貴ノ岩を実の息子のように可愛がり「弟子が殴られたのは、自分が殴られたのと同じ」と発言している。変革者として、協会や相撲人という村的な集団性よりも、部屋という家族的な集団性を第一に考えているということだ。貴ノ岩にしてみれば、この家族的な師弟関係と、同郷の仲間意識とが齟齬をきたした。またそこにスマホが絡んでいるが、スマホとは、自分を別世界に置いて周囲の他人を無視する、ある意味で排除の道具なのだ。 外から見れば、相撲界という土俵の上で、日馬富士の暴行に対する排除の力と、貴乃花の異端に対する排除の力が、しのぎを削っているように見える。
固有性を守る国際化
多くの伝統文化は、政府や財団の助成金を受け、あるいは少数の篤志的な支持者に支えられているが、大相撲は、それ自身で「稼げる伝統文化」である。これは世界でも珍しい。 裸に近い姿を公衆の面前に晒し、試合開始までに仕切りを繰り返し、土俵入りや呼び出しや行司や物言いや弓取りといった古風な様式を守り、すべての生活をともにする準家族的な(個人主義的ではない)「部屋」という単位とその集合で運営されている。これはもう単純にスポーツとはいいにくい、ひとつの文化様式なのだ。 そう考えれば、すべてが近代化し、民主化し、個人主義化し、強く管理化される中、国民のあいだに、ここだけは前近代的な家父長的な文化を維持してもいいのではないかという気持ちが潜んでいる。国技という位置づけも、両陛下の御観覧と賜杯の授与も、横綱という地位に人の鏡としての特別な人格を求めるのも、近代化とグローバル化に対する日本文化(武士道的な)の最後の砦という感がある。 部屋制度こそがさまざまな問題の温床であるという意見はいわれても、これを根本から改めようという試みはもう一つ現実化しない。 そのきわめて日本的な文化様式に外国人が参加するのは、決して悪いことではない。 筆者は、同じ日本の格闘技として柔道が国際化していることを喜ばしく思っている。相撲もまた国際化しているわけだが、方向が異なる。柔道はその様式が普遍化することによって、相撲はその様式の固有性が守られることによって、すなわち外に向かう「放射」の力と、内に向かう「包容」の力によって(先にこのサイトの「『放射』の権力と『包容』の権力──現代社会制度形成の原点・第一生命ビル」という記事で論じた)、つまり日本文化が普遍性と固有性の両方向で国際化することが望ましい。 国際化する伝統文化としての相撲道は、ここで規律の厳しさと懐の広さをともに示したいのだ。