「”スーパーサイヤ人の闘い”といわれたヘーゲル研究会」、原稿を何度書き直しても「もっと、もがけ!」…哲学者・苫野一徳さんが師匠や担当編集者から受けてきた「教育」の共通項
本当に自由になれる生き方に出会えた
苫野:この本を選んだ2つめの理由は、ヘーゲルの『精神現象学』が、私の人生を大きく変えてくれた本だからです。 『精神現象学』は、人間の精神の成長の物語です。すごくざっくり言うと、自分の自由を主張したい人間が、それがうまくいかないので、いろいろな精神の形態をとって、挫折を繰り返して、やがて相互承認の精神にたどりつきます。その過程で、先ほど私の高校時代の話でもお話した「徳の騎士」がいたり(参照「あなたが言ってることは現実的に無理」と言われた教育学者・苫野一徳さんの構想は、なぜいま「公教育の構造転換」を引き起こしているのか」)、ほかの誰になんと言われようが俺は俺なんだ、という「ストア主義」がでてきたり、人を批判して相対的に自分を高めようとする「スケプシス主義」がでてきたり、いろいろな形態が出てきます。 私は、それらを全部、経験してるんですね。「ストア主義」も、「スケプシス主義」も、「徳の騎士」も、そのほかのいろいろな類型も。『精神現象学』は、自分の今までの精神過程が見透かされたような恥ずかしさを感じるのと同時に、自分はどうなっていけばいいのか、ということを明確に示してくれました。それは、『教育の力』でも大きなキーワードになっている「自由の相互承認」です。 誰しも、自由をめがけてあがき続けながら生きています。自分の殻にとじこもったり、人の批判をしてばかりだったり、あるいは自分の正義をかさにきてしまったり。私自身、そういういろいろな経験をするなかで、最終的には、本当に自分が自由に生きるためには「相互承認」の精神に到達することがとてもだいじなんだ、ということを、ヘーゲルから学びました。 ――「相互承認」への到達は、苫野さんが高校で生徒会長になったときに体験したことですね。(参照「あなたが言ってることは現実的に無理」と言われた教育学者・苫野一徳さんの構想は、なぜいま「公教育の構造転換」を引き起こしているのか」) 苫野:そうですね。ひとりよがりな正義を唱えるのではなく、他者を承認したうえで、「私はこれが正しいと思うけど、みなさんはどうですか?」と、相互承認をめざして投げかけ続ける姿勢。これこそが、自由に生きるために欠かせない本質的な条件なんです。 絶対的に正しいことがどこかに転がっているわけじゃない。相互承認をめがけあうコミュニケーションの中に、みんなにとってのよいこと、正しいことが浮かび上がってくる。それを互いに見つけ出そうとする生き方の中にこそ自由がある、というヘーゲルの哲学に、衝撃を受けました。 ――苫野さんの「人類愛」教祖時代と対照的です。 苫野:ヘーゲルの哲学に「心胸の法則〈むねののり〉」という言葉があります。自分にとって正しいことは、ほかのみんなにとっても正しいはずだ、と素朴に信じ込む態度を指します。私の「人類愛」は完全にこれだったんですよね。ちょっとおめでたいロマン主義です。みんな人類愛に包まれてるんだ、と考えることによって、自己の安寧を得ると同時に、自己の自由を保障していくわけです。 でも、世の中そうはうまくいかない。そういうおめでたいロマン主義で世界は完結しないんですよね。それで、また、あがく。あがいて、あがいて、最終的に、相互承認をめがけるところに私たちは自由を得られる。そういうことを気づかせてくれたという意味でも、へーゲルの『精神現象学』は私にとって特別な本なのです。大変難しい本ですが、それを、竹田先生と西先生が神業的にわかりやすくまとめてみせてくれたのが、『超解読!はじめてのヘーゲル『精神現象学』』です。